元は私自身のものでなくても。

温もりと、赤い血液が通っている。

何だか、不思議な気分だった。




この手

しまった、と思った瞬間に、じわりと鈍い痛みが広がる。 右手に握る包丁を置いて、左手を覗き込むと さほど深くは無いけれど、皮膚が裂けて赤い血が滲んでいた。 小さな雫がぴっぴっ、と落ちていく。 サイザーにとって、この小さな痛みはさほど大したものではない。 地が不器用なのか大雑把なのか、料理を習い始めた当初は 何本もの指に包帯を巻くハメになっていた。 近頃はようやく「慣れ」というものが出てきたのか、怪我をすることは少なくなっていたのに。 久々の痛みが何故か懐かしくて、 何故か、微笑んでしまった。 けれど、この『左手』は。 サイザーが生まれ持ってきたそのままのものではない。 大きな悲しみの後に残った、小さな奇跡。 左手と左足。 それは、彼女の親友のカケラが創りだしたもの。 サイザーの手足であって、彼女の親友の身体でもある。 中途半端な存在。 それでも温かくて、血が通っていて。 こうして指を切れば、痛みがある。 疑問でもなく、不安でもなく、驚きでもなく。 ただ、不思議だった。 「まあ!指を切ったの?」 指を切ったそのままの格好で立っていると、 洗濯物を取り込んでいた母親が驚いたように声をかけてきた。 血を流す人差し指を強調するように指を立てて振り返り、 眉を寄せて笑った。 「またやってしまったよ。…包帯、巻いてくれる?」 パンドラは、肩を竦めて笑った。 しょうがないわね、と言って。 一度意識をし始めると、気になってしまうものらしい。 包帯が巻かれた人差し指、そして左手全体で色んな動作をしてみる。 開いて、閉じて、開いて、閉じて。 いち、に、さん、し、ご。 ぐるぐる、ぐるぐる。 自然に動き出す、音色を生み出す指使い、 そして、華やかな音を生み出す、自分には出来ないあの指使い。 思いつく順に片端から動かしてみる。 違和感無く、左手とその五本の指は動いた。 元は自分のものでなくて、でも今は自分自身のもので、でもあの人のカケラ。 不思議、という言葉が適切なのか解らないくらい不思議な。 「サイザー、怪我したの!?」 帰ってきたライエルを迎えた早々に、左手を捕まえられてしまった。 ただ人差し指を切っただけなのに、 何とも大げさなリアクション。 「ちょ、ちょっと切っただけだ!大丈夫。」 その余りの勢いに圧されつつも、何とかライエルを宥める。 長い間ピアノを引き続けていた所為か、 ライエルは指の怪我には人一倍敏感なのらしい。 いつものような怪我だというのに、彼のリアクションは変わる事が無い。 一通り大騒ぎして、落ち着いたら 包帯を巻いた指を、顔をしかめながら撫でるのだ。 「いつもながら、大げさじゃないか?」 ソファーに腰を下ろしても未だに手を離さないライエルに向かって、 呆れたようにサイザーは呟いた。 ライエルは少し口を尖らせて顔を大きく横に振った。 「そんなことない!どんなに小さな怪我だって、サイザーが傷つくのは嫌だよ。」 真剣な眼差し。 臆することなく、真っ直ぐにサイザーを見つめて言う。 それは、子どものように理屈の通らないことだったけれど。 すごく、嬉しかった。 嬉しくて緩む口元をそのままに、「うん。」と頷くと、彼もまた 笑って頷いた。 「なぁ、ライエル。」 「何?」 いつまでも離されることのない左手に視線を落としながら、 何気ないことを話してみる。 「私の左手は、暖かい?」 「え…?」 質問の無いように要領を得ないままだったが、ライエルは 「暖かいよ。」と肯定した。 そうしてまたしばらく、サイザーは押し黙ったまま、繋がれた左手を見つめる。 彼の両手に繋がれた左手からは、彼の体温がじわじわと伝わっていた。 これも何だか、不思議な気分で。 「サイザー…?」 「この左手は。」 呟いて、顔をあげる。 目の前には困ったような表情のライエルが居た。 けれど、サイザーは笑ったままで。 「…この左手は、私の手?それとも、オカリナの、手?」 最後まで言い切ると、ライエルは驚いたように目を見開いた。 心なしか、サイザーの手と繋いだ手にも力が入っている。 先の彼女のように、今度はライエルが目線を落とす。 困らせてしまったか、とサイザーが謝罪の言葉を口にしそうになったその時。 ライエルが、パッと顔を上げた。 「ふたりの手だよ。サイザー。」 そして間髪を入れず、答えを見つけて嬉しそうに笑いながら言う。 サイザーが目を丸くしていると、嬉々としてその左手をぎゅっと握った。 「ふたりの…。」 「そうだよ。」 「オカリナが君に遺してくれた、君の手と足。  サイザーのものであって、オカリナのものでもある。二人の手だ。」 元は自分のものでなくて、あの人のカケラで出来て、それでも今は一心同体。 一緒の手。 ふたりの、手。 「あぁ、そうだな。」 肩の力が下りた様に、溜息と一緒にこぼれ落ちる相づち。 ゆっくりと瞼を開けて、しっかりと自分の左手と左足を見つめた。 握られたライエルの両手に右手を添える。 優しく力を込めると、返すように握り返してくれた。 サイザーも嬉しそうに、声をたてて笑った。 繋がれた手がとても暖かい。 まるで、オカリナのよう。 嬉しくて、それでもやっぱり不思議だった。 ++++++++++++++++++++++++ サイザーさんが精神的に不安定気でごめんなさい。