大丈夫、大丈夫。 私は大丈夫。 人間の体は便利だ。二本の足を交互に動かすだけで前に進む。 右、左、右、左 それがどれだけ重たい足でも。 寝不足気味のアズリアに、晴天の朝の光は眩しい。 寮から学校へ伸びる早朝のレンガ路には、アズリア以外誰も居なかった。 時折鳥の声と、遠くを走る車の音が聞こえるくらいだ。 自分の早起きの習慣を、アズリアは誉めたくなった。 こんな無様な歩き方、見せていいものじゃない。 抱えた鞄越しに左右に動く足を見ていた。 涼やかな風が彼女の黒髪を揺らしても、今は鬱陶しいだけだ。 気分は鉛が腹に詰め込まれたよう。 軍学校へ続く赤レンガが、アズリアの革靴に合わせて音を立てる。 自分でも、それがいつもより小さく、覇気が無いものだと分かった。 それに自嘲の笑みを浮かべていた、その時。 赤レンガに響く足音が二つに増えた。 たったったったっ アズリアよりも軽快で、重たく、大きな音。振り向かないでも分かる。 けれど振り向かない。振り向けない。 けれど勿論彼は、そんなアズリアの状況など知る由もない。 「おはよ、アズリア!」 背中に声が掛けられる。 あぁ、今日もこの男はバカみたいに元気だ。 大丈夫、だ。 嫌いになれないなら、これ以上好きにならなければ良いのだから。 必死に言い聞かせながら、アズリアは声のした方向へ体を向けた。 「…おはよう。レックス」 「昨日結婚式どうだった?」 「あぁ、綺麗だったぞ、花嫁。お前は?行ったのか?シルターン自治区。」 「行ったさ!結局誰も捕まらなかったんだけどさ、 その分好きなトコ好きなだけ回れたし。」 「占いやオミクジはしただろうな?あそこに行ったら常識だぞ」 「俺は手相占いしてもらったよ。凄いよな、手のシワだけで鑑定するんだ」 話してみれば、いつもの通りだった。 こうして並んで歩いても、何の事もない。 普通だった。 アズリアは心の底から安堵した。まだ引き返せる。 くすぶる想いはまだ消せるのだと。 そう思った。けれど。 突然左を歩いていたレックスの足が止まる。 アズリアがそれに合わせて後ろを振り返ると、彼は渋そうに顔をしかめていた。 「どうした?」 「…アズリア、元気無いな。」 話してても、辛そうだ。そう続ける。 アズリアは驚いた。 辛いだなんて自覚はなかったし、それを見破られるとは思いもしなかったし。 気まずそうにこちらを伺うレックスに、アズリアは肩をすくめて見せた。 「昨日は遅かったからな、寝不足なんだ。」 「そう…なの?」 「普段は実家に居ないから、親戚に挨拶するのも一仕事なんだぞ。 少しくらい疲れさせてくれ」 親戚周りで疲れているのは本当だったし、寝不足なのも本当だ。 うんざりとした様子のアズリアに納得はしたのか、 今日はあんまり無理しちゃ駄目だよ、と苦笑いした。 誤魔化されて、くれただろうか? 「あ、あのさ、アズリア」 しばらく無言で歩き、校門を過ぎた辺りでレックスは彼女の腕を引いた。 舗道から反れた小さな林に連れられる。 いつも二人でのんびりと過ごす場所だった。 「…レックス?」 引っ張ってきた腕を離すと、レックスはゴソゴソと鞄を探り始める。 ぼんやりとそれを眺めていると、突然目の前に手を差し出された。 「これは?」 「えっと、…お土産」 「は?」 「これあげるから元気出してとか、そういうのじゃなくて、 何ていうか目に入っちゃったんだ。これ。アズリアに似合うだろうな〜、って思って。」 支離滅裂な事を言いながら差し出された掌には、 「………」 赤いシルターン形式の髪飾りが乗っていた。 花を型どったそれは、濡れ羽色の彼女によく似合うだろう。 レックスを見上げると照れ臭そうにはにかんでいた。 より一層哀しくなる。 嬉しくない筈がない。 この髪飾りを見て自分を思い浮かべてくれたこと。 それを贈ってくれようとしていること。 嬉しくて仕方がないから、切ない。 レックスの差し出したそれは、アズリアには受け取れないものだった。 受け取ってしまえば、彼女は否定しようとしている気持を認めてしまうことになるから。 アズリアの理性は、認めることを拒否していた。 だから。 「ありがとう…」 礼を言うアズリアにレックスは顔を綻ばせる。 だが差し出した手は意志と反して押し戻された。 きょとんと丸まる蒼い瞳から目を反らす。 必死にうつ向いて言葉を続けた。 「でも、受け取れない」 途端に彼の顔は、驚きと悲しみがない混ぜになったように曇る。 あまり見たくない表情だった。 「貰ってくれるだけで、良いんだよ?付けて見せてとか言わないからさ。」 焦ったような長い腕に手のひらを押し戻される。 アズリアは何度も何度も心の中で謝りながら、それにあらがう。 「似合うわけないだろう!」 「絶対似合う!似合わないようなものは買ってこないよ!?」 「駄目なんだ…駄目なんだレックス!…誰か他のヤツにあげてくれ。」 「他の子じゃ駄目なんだよ!君じゃなきゃ…!」 「…ッ!」 心臓を掴まれたような言葉だった。 だが微かに残る理性を辿って、力を振り絞って顔を上げた。 笑う。 全ての感情を覆い隠すように笑う。 レックスが得意な、アズリアの一番嫌いな笑みで。 レックスの動きが一瞬ぴたりと止んだ。 隙が出来た敵ほど倒し易いものはない。 「…すまない。レックス。」 そう言うとアズリアは、レックスの手を包み込んで彼の胸元へ持って行った。 押されて引いた足元で、草がカサリと音をたてる。 それ以上動く気配がないのを見ると、アズリアは林から駆け出した。 鞄を抱えてひたすら走る。逃げるようにではない。逃げている。 彼の気持ちから 自分の気持ちから 今の状況から 足枷を填められたように重たい足を、必死に動かす。 自分よりも大きな手の体温が、いつまでも離れなかった