あれから三日が過ぎた。 アズリアにとって平穏な日々が続いている。 彼の為に、やきもきしたり、苛ついたり、動転したりしていない。 簡単な話だった。この三日、極力レックスを避けている。 顔を合わさないようにする、ただそれだけの事でこんな平穏が訪れるなんて! アズリアは教科書から顔を上げ、そっと唇を弧に走らせる。 あれから―自分の小さな恋心に見切りをつけてから、 アズリアは彼の居そうな場所に近付こうとしていない。 図書館、剣術の訓練場、校舎裏の小さな公園。 食事の時間もずらし、授業もなるべく離れた席へ。 赤毛が目に入ると、自然と視線を反らすようになった。 前なら、逃がすものかと 睨みつけるように視界へ入れようとしていたのに。 逃げ続けて気付いたことがある。 弟のために、家のために、自分の夢のためにと入った軍学校。 過ごしたその日々ほとんどが、レックスと共に在ったということ。 校内何処を歩いても、彼との思い出が甦る。 自分はいつも怒っていて、彼はいつも笑っている。 それが当たり前になっていた。 そしてその「当たり前」を崩した今、アズリアの居場所は格段に少ない。 思い出に追い込まれて逃げ込んだアズリアは今、 誰も使わない校舎の端にある教室に居座っている。 何部屋か設置されている自習室で、不便な上に陰気であったそこは誰も近付こうとしなかった。 今までの自分も含めて。 10人分の自習スペースが確保されているその部屋は、薄暗かった。 原因は四つ並んだ窓の、8割を塞いでいる落葉樹の群れだった。 風に揺られ、さわさわと音を立てる木の葉の影は、この時間部屋全体へ伸びる。 暑い陽射しからは避難出来るが、一緒に湿気も取り込んで決して快適ではない。 足元を固める木造の床も、湿けた感触を伝えていた。 この場所が、今は心地よい。 広げたノートには、順調に文字が加えられていく。 誰もいないその空間に、アズリアは完全に遮断されていた。 彼の空気に触れること。 それすら痛みを伴う今は、隔離された場所で深呼吸をしる必要がある。 アズリアはそう自分に言った。 痛みが、嫌悪感を孕まない、甘いものだったから。 その痛みが突然甦る。じわじわと沁みるそれに耐えられず、ペンを放り出した。 ばたん。 ノートはそのままに机に突っ伏す。アズリアの鼻孔をインクの匂いがかすめる。 不快だった。 「…どうしたらいいんだ!」 払っても払っても、霧のようにまとわりつく想い。その影にアズリアは怯えた。 こんなに根強く深いものだったのか、と。 ようやく、思い出なんてない場所を探し出したのに、それも無駄だった。 所詮逃げ切られるものではなかった――。 しかしアズリアの理性は、ここで膝をつくのを良としなかった。 レヴィノスの家に産まれた覚悟を試されているのだと言い聞かせる。 …もし、もし今レックスに会ってしまったとすれば。 どんな顔を向ければ良いのだろう。 少なくとも今のように情けない顔なんてしてはいけない。 怒った顔だろうか? それとも笑った顔だろうか? あぁ、きっと笑っていた方が良い。 それが心からのものでなくても、彼はいつも笑っていたから。 同じように笑っていれば、誤魔化されてくれるのではないだろうか。 微かな希望も含め、アズリアは考える。 手元のノートを見下ろす。無意識に書き綴っていた数式が並んでいた。 …どこまで考えたのか覚えていない。 一度手放した思考は簡単に戻ってはくれなかった。 「…仕方ない、な」 ノートを閉じる。荷物をまとめて寮へ帰る支度を始めた。 帰ったら、残っている課題を仕上げよう。溜めていた本も読もう。 先日会ったばかりだけど、家に手紙を書こう。 忘れるために、思い出さないために。 無駄なあがきだと知っているけれど、アズリアは思考を反らし続けた。 支度が終わり、椅子から立ち上がろうとした瞬間。 バタン、と扉の開く音がした。 自分の後方へ現れた気配にアズリアはうろたえる。 よく知った、気配だった。 入ってきた人物は無言で開けた戸を閉める。湿度の高い静寂の空間に、 その音は妙に大きく響く。 「アズリア…」 その声に反射的に振り返り、アズリアは体を固める。 どんな顔をすればよかった?どんな話をしようとしていただろうか? 『一度手放した思考は簡単に戻ってはくれない。』 ついさっき、分かったことだというのに。 だって。 だって仕方ないじゃないか。アズリアは自分に語り掛ける。 私が笑おうと思ったのは、彼がいつも笑っているから。 笑っていてくれたから。 レックスは明らかな怒りを携えた顔で、その場に立っていた。