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暫くの静寂。 眩い日差しから逃げた陰で、二人は立っていた。アズリアは動けない。 刺すような青い視線から目線も体も離れることができない。 酷く長く感じる沈黙を破ったのはレックスだった。 「ようやく見つけた」 ぽつりと吐かれた言葉に、背筋がすくむ。 初めて見た瞳の色を、アズリアは怖いと思った。 知らない、知らない。…こんなアイツ知らない。 思わず靴を滑らせて後退りをする。 が、カタンと音をたてて腰に机が当たる。 それ以上は動けなかった。 視線はそらせない。 「どうして、避けるの?」 獲物を狙うかのような目で、レックスはアズリアを追い詰める。 「避けてなんて…ない」 距離を縮めてくる彼に向かって、眉を寄せて威嚇する。 しかし、効果はいつもの比ではない。 もっとも、元々それが効くような相手でもなかったのだが。 あと三歩という距離でレックスは止まる。 そして膠着状態を否とするように、アズリアへ言い重ねた。 「避けてるよ、明らかに」 「お前の思い違いだ」 「何がだよ!今まであれだけ試験がある度に喧嘩ふっかけてきた癖に!」 「もうそういうのはやめたんだ。」 「だからって避ける理由にはならない!」 「いい加減にしてくれ!お前が勝手に思ってるだけじゃないか!」 次第に言葉はヒートアップしてくる。 心を落ち着かせようとしていたアズリアも、引きずられるように声を荒げた。 見たことのない目、 聞いたことのない激昂。 心のままに言葉をぶつけてくるレックスに、アズリアは焦燥した。 「だ、大体何だお前は!どうして私なんか構うんだ!」 「なんかって何だよ、君だからだよ!今朝も言ったじゃないか」 もうひとつ声のボリュームを大きくしたレックスは、 躊躇うことなく右足を踏み出す。 差は縮まる。 アズリアは腰に感じる机の堅い感触を忌々しく振り払う。 いつもなら、ひとりぶんの机くらい、易々と動かしていたのに。 力が全く入らない。 足元の自分より大きな影が、こちらを向かって滑ってくるのを、 畏怖にも似た思いで見下ろした。 「やめてくれ、もうやめてレックス!!もう気にしないで…!」 懇願するように言葉をつのらせるアズリアの肩を掴み、 レックスは叫んだ。 「気にする!君のことが好きなんだから!!」 そして同時に世界の全てが冷えていく。 肩を強引に掴んだ両手が、かたかたと震えていた。 その感触を感じながら、アズリアは言葉を反芻する。 …「君」が「好き」? その意味を察知した瞬間、冷えた世界が自分を覆い尽くすような気分になった。 顔を伏せ、声を震わせながらレックスは言い重ねる。 「…君、が。アズリアが好きなんだ。 だから話してくれなかったり、目を合わせてくれなかったりするのは …辛い。」 「………」 「君が好きだから、気にするなって言われても気にする。 会いたいから、学校中を探すんだ。」 アズリアは呆然とした面持ちで、揺れる赤髪を見つめていた。 冷えた世界は同時に彼女の頭も冷やす。 酷く冷静に、レックスの言葉を聞く。 こんな時にと思う気持ちと、 あぁやっぱり彼も同じ気持ちでいてくれたという気持ち。 ふたつが複雑に絡まり、溶け合い、一本の糸になる。 思考は機械的に動き、理性が本能を圧倒的に抑え込む。 決めたじゃないか、アズリア。 忘れると。 夢の為に、家の為に、イスラの為に…―。 感情に蓋を下ろし、アズリアはそっと息をついた。 何も語ろうとしない彼女の動く気配に、レックスが顔を上げる。 揺れる青が飛び込んできた。 いつもは胸を高鳴らせてばかりのそれが、今日はアズリアの心を落ち着かせる。 「…冗談言うな」 「冗談じゃない!俺は本気で」 「私はレヴィノスの娘、お前は姓もない平民出身。 …釣り合う訳がないだろう? そんな思いははっきり言って迷惑だ。早く忘れた方が良い。」 我ながら酷いことを言っていると思う。 想いを゛忘れる゛ことがどれほど難しいか、身を持って知っている筈なのに。 今度こそ、アズリアは自分の表情が分からなくなった。 笑っているのだろうか怒っているのだろうか無表情であるのだろうか。 泣きそうにさえなっていなければいい。 彼は優しいから、泣きそうな自分から目を離してはくれないだろう。 しばらく驚いたように眉を寄せていたレックスは、 思い出したかのようにアズリアの肩へ掛けていた手をずるりと下ろした。 「もう、いいか?」 ―この場を終わらせても。言葉を投げつけるのを止めても。 「…うん」 レックスはゆっくりと頷いて踵を返した。 そのまま無言で扉へと歩く。 最後に何か言われるかと思ったが、無言で出て言った。 扉が閉じられた瞬間全身の力が抜け、細く長い溜め息が教室へ響く。 ずるずると膝を折ると、ようやく背後にあった机が床を移動する。 なんて、あっけない。 辺りの薄暗さに、彼との対面が、感じていたより長いものであったのが判った。 それだけだった。 苦しい 悲しい 切ない 痛い 愛しい。 そんな感情は浮かばず、 ただ一つの物事を終らせたという達成感と安堵があるだけだった。 「うん、よし。」 これで良い。 アズリアは彼が出ていった扉を眺めながら小さく笑った。