変わらず日々は過ぎてゆく。 すれ違う心が摩擦を起こしても。 鐘が鳴る。下校を促す鐘だった。 「…もう、こんな時間か。」 アズリアの手元を照らしていた陽の光は、いつのまにかくすんだ橙に変化している。 広げた教科書のページは先程からほとんど進んでいない。 赤いマーカーで印された授業のポイントだけを繰り返し繰り返し読んでいるだけだった。 アズリアは授業が終るとすぐ、相変わらず人の少ない自習室で夕食の時間までを過ごした。 一人きりの空間は卵の殻のようにアズリアを包む。まどろむ空気を吸い込めば、 身も心も溶けていくように時間が過ぎていった。 もっともそれは、まばたきをするだけの空虚な、無味無臭の時間だった。 広げられたノートは、それを如実に語る。 信じられない程に、心は落ち着いている。 理性を越えて騒ぎ立てる鼓動も、焦燥感も、今は全く起き上がらない。 先日までの心の波が嘘であったかのように。 それは、彼がこちらへアクションを起こさないことも一因だった。 「おはよう」も「ご飯食べよう」も「今、暇?」も「おやすみ」も聞こえない。 たった数日前まで煩い位に耳に飛び込んで居た声が、ぱったりと止んだのだ。 訪れた静寂にアズリアは安堵する。 反面、自分が叩きつけて傷付けたのに、と勝手を嘲笑う自分も見える。 では、彼を傷付けた、と嘲笑うその「自分」は、何を望んでいるのだろうか? 「好き」などと告げる資格は、無くなってしまったというのに。 開けられた窓から入る風が、黒髪を揺らした。 昼に比べて冷えてきたその風を受けて、アズリアは静かに席を立った。 西日が差し込む廊下は、一面を深い橙で染めている。 寮の夕食の時間が近づいていた。 先の沈んでいく思考を反らすように、明日の模擬戦闘の実習について考えながら アズリアが足早に歩を進めていると、 「…う、わっ!」 小さく叫び声が上がり、その直後どさどさぱさりという派手な落下音が背後で響いてきた。 落下音は軽い紙の束と、固い本の表紙がその正体であったと思われ、 そして小さく叫んだ声の主は 「…………。」 夕陽に負けないほどに明るい髪を主張させる、その人。 彼女達は夕暮れの中で再び対峙する。 レックスは自分の足元に散らばった用紙を黙々と拾い集める。 ぶち撒けられたそれらは、滑ってアズリアの足元にまで届いていた。 指でそっと拾い上げる。 チラリと目を落とすとそれは、地形別の戦略を説く授業のノートだった。 おおらかな彼らしく、ポイントだけつまんで書き込んである、余白の多いノートだった。 よくぞこれだけの情報量のノートで主席を取れるものだと逆に感心する。 思考する脳の構造が、根本的に違うのだと思う。 だからこそ惹かれたのかもしれない。 レックスの腕に再び積み重なっていく用紙の上へ、そっと近寄って拾い上げたも のを落とす。彼はじっと床に目を落としたままだった。 アズリアは赤い髪のつむじをぼんやりと眺めながら息をついた。 こんなに近付いたのは久しぶりで、今更ながらその距離に焦燥を覚える。 本当に断ち切る為には、無視して立ち去らなくてはいけなかったのではなかったのか、と。 影が、先ほどよりも濃くなっている。 頬に当たる橙の光がジクジクと痛い。 下りかける夕陽に溶けるように揺れる赤が、すっと動く。 その瞬間、湧き出た焦燥が裏付けられた。 髪が揺れ、影を落とした肌が起き上がってくる。 「…ありがとう。」 よりによって目を細めて、口角を上げて、つまりは笑いながらレックスが顔を上げたのだ。 見ないようにしていた蒼が、心の中へ飛び込んでくる。 それは自分が思っている以上に、すとんと在るべき心の場所へ飛び込んできてしまった。 引っ張ったゴムから手を放したかのように勢いよく。 「………っ!」 「あ……」 それを自覚した瞬間、靴は音を立てて廊下を駆け出していた。 パタパタと革靴が地面を叩く音だけが耳に響いて、アズリアの背中を押していた。 逃げなくては。 逃げなくては、自分が駄目になってしまう。 熱い。 心が、身体が、すべてが。 …きっと、夕陽に当たりすぎたからだ。 あんなに赤い夕陽が、体に良い筈もない。 「すごく綺麗だったよ。お前にも見せてやりたかった。」 『うん、本当に残念。今度写真を送ってくれるみたいだけど、やっぱり実物が見たかったよ…』 実家に電話を掛けたのは、本当に気まぐれだった。 何となく、誰でもいいから馴染みの声が聞きたくなって、 寮に備え付けてある電話の前へ立っただけなのだ。 その気まぐれは運よく弟・イスラの具合が、日頃よりも良かった時に当たった。 久しぶりに聞く弟の声に、アズリアは気分を浮き上がらせながら、 受話器を耳に当てていたのである。 しばらく互いの近況を伝えあった後、先日あった従姉妹の結婚式へと話は流れていた。 外出が禁じられている弟は、当然のように留守番だった。 アズリアの話を通して当日の情景を思い浮かべながら、イスラは含み笑いをもらす。 息が受話器にぶつかる音が響き、アズリアが訝しげに声を掛けると、意地悪そうな弟の言葉が 耳に入り込んできた。 『ウェディングドレスを次に見せてくれるのは姉さんだよね。』 「な…!イスラ、何言って…」 『そうでしょう?レヴィノスで結婚に一番近い女性なんて、姉さんしかいないじゃない。』 本当に体調が芳しく気分が良いのか、いつもはない軽さがイスラの声にはあった。 その様子に安心しながらも、急な話題転換にアズリアは焦った。 「確かにそうだが…しばらくそんな予定はないぞ?」 アズリアは帝国軍人志望であり、結婚して家に入るという考えはその妨げになるものだった。 白いドレスで教会に佇む自分を想像できない一因が、そこにもある。 しかし、姉のその言葉にイスラの声が静かに沈む。 『…姉さんの予定には無くても、家は予定を立てるかもね。』 言外にレヴィノス家は、「戦略的な見合い結婚」を推し進めてくるであろうことを示唆していた。 言われなくても、アズリアとてそんなことは重々承知の上なのである。 だからこそ、ここの所何においても身が入らない思いをしているのだし。 「イスラ……」 わかってるんだ、と言い含めようとしたアズリアを、イスラは問い詰めるような声音で抑えた。 『姉さんには、好きな人が、いるよね。』 「……!」 何だというのだろう。イスラといい、従姉妹の彼女といい。 アズリアは驚愕していた。 相手の鋭い観察眼と、諭すように指摘されるほど解りやすかった自分の気持ちの大きさに。 震える手で受話器を握りながら、アズリアは息を漏らす。 急に冷えた廊下に立ちすくみ、ただひたすらイスラの言葉を待った。 『忘れないと、辛いよ?』 「分かってる!…分かってる。だから何度も…」 『諦めようとしたの?』 「………でも。」 駄目だったみたいだ。 口ごもるアズリアに、イスラは言葉をつのらせる。 『そもそも、なんで諦めようとしてるの?相手はレヴィノスの家名に拘ってるの?  あぁ、きっとそうだね。名家のお嬢様と親しくなれば、軍での出世に役立つからね。』 小馬鹿にしたような声色に、アズリアは拳を握り首を振った。 弟へ一喝するように目の前の壁へ拳を叩き込み、 頭に上った熱の赴くまま叫んだ。 「アイツは、そんな人間じゃない!!  …アイツは…」 お人好しで、いつもへらへら笑ってて、甘ったれで、とにかくバカで。 それでも強くて優しくて、でも脆くて。 絶句する姉に向かって、イスラはやれやれといった風に笑った。 『…家に拘ってるのは姉さんじゃないか。』 「イスラ……」 壁に打ち付けた拳をそっと下ろして、アズリアは鮮明になっていく思考を感じた。 楽しげなイスラの声を聞いていると、今まで渦巻いていたドロドロとした感情が流されていく気がした。 『わかってたよ。姉さんの話を聞く限りでは、例の主席さんがそんなベタなこと考えてるとは思えないし。  というか、僕は「好きな人がいるよね?」とは聞いたけど「例の主席さんが好きだよね?」とは聞いてない から。』 「お前…」 そこで初めて、イスラがアズリアの悩みを直接聞き取ることなく感じ取ったことを知る。 昔から人の機微には聡い印象ではあったが、ここまでのものとは。 同時に、誰にも言えなかった悩みを打ち明けられる姉弟の関係に心が暖まるようだった。 人よりも特殊な境遇に置かれてしまっているけれど、血の絆というものが少しでもあるのだと思うと、 レックスへのものとはまた違う優しい切なさで胸が締め付けられた。 『家名なんて関係なく、姉さんはその人が好きなんだよ。』 「うん。」 『少なくとも今は、結婚の話なんて出てないんだから、好きなままでいいんじゃない?』 「…うん。」 『それを伝えるか伝えないか、どういう関係を続けていくかは、姉さんの考え次第で僕には全然わからないけど。』 流石に「既に気持ちを伝えられてしまった」ことは気付かれなかったし、言うのも気恥ずかしかった。 アズリアは人気のない廊下の端を見つめながら小さく頷く。 姿は見えない弟を想像しながら、微笑みかける。 家名なんて、境遇なんて関係ない。 アイツは、アイツだ。 思えば簡単なことだったけれど、それにきちんと目を向けることが難しかった。 けれど今、弟の言葉で勇気が与えられた気がする。 自分の想いと彼の想いに、真正面から嘘をつかずに向き合う勇気を。 ++++++++++ イスラ超元気だよね…(笑)