10

朝は変わらずやってくる。 何が起こっても、心臓の鼓動を止めない限り万人に日の光は降り注ぐ。 近頃実感することの多いその思いに、今朝もアズリアは心を浸らせていた。 しかしその心中は今までと違って安定している。 澄みきった青空を、素直に綺麗だと感じることができる。 昨夜の弟の言葉が、深く根強く、アズリアの胸に息づいているからか。 自分をなだめるようなイスラの声が、まだ彼女の耳に残っていた。 弟を守りたい、という心は、決して揺らぐものではない。 今でさえ、イスラを差 し置いて彼に心を寄せても良いものだろうかと考え込む気持ちが残っている。 家を負っているという責任も、消えてしまったわけではない。 けれど、アズリアの捨てようとしていた想いを、今はそのままで良いのだと掌に戻してくれた人がいた。 自分に素直に向かいあっても良いのだと、背中を押してくれる人がいた。 それが、アズリアが守りたいと思ってい当人からなのであれば。 …少しは応えてあげなければ申し訳ない。 自分の我が侭を許してくれる弟にも。 好きだと言ってくれた彼にも。 粘り強く、しつこく、胸の中に居座り続けた自分の心にも。 部屋の窓をそっと開ける。少し冷えた爽やかな風が、アズリアの黒髪を揺らした。 そしてしばらく、いつも授業を受ける校舎ではなく、その真反対に位置する演習場を眺めた。 今日は一日掛けての野外演習。 一人で行動し、どこまで生き残れるかという課題だった。 背中につけた帝国章を、敵に取られたら脱落。 武器の使用は、重火器以外であれば使用可能。 しかし、隊から離れた時の緊急性も試される為、ロープ・アウトドア用具などの大掛りなものは持ち込み不 可…―。 頭の中で、演習の概要を反復する。 団体ではなく個人での演習というのが、アズリアには有り難かった。 今は誰とも話したい気分ではない。 己の気分で、授業の良し悪しを決めるなどということは、普段のアズリアならば 思わないことだが、ともかくも今日はそんな気分だったのだ。 何より団体での演習となると、当然のように「彼」と一緒になる。 想いを持ち続ける覚悟はあっても、伝える覚悟はまだない。 散々拒絶したのに、再び以前と同じように接するなどという器用な真似は、 アズリアには出来なかった。 かと言って、謝るきっかけも見出せない。 だから、今日は一人で良かった。 考えてみようと思う。 彼と、彼に惹かれた自分のことを。 また、彼の笑顔が見たい。 自分に向けられたものでなくてもいい、笑ってほしい。 今のアズリアの心は、それだけだった。 青い空を見上げる。 今から行われる泥臭い演習なんて忘れてしまえるほど、深い蒼。 「…おはよう、レックス」 アズリアは、小さく笑い掛けた。 バックルをはめる。ガチン、と音が部屋に響いた。 指定の運動着に着替え、支給された武具を体に装着していく。 ガチガチと金属音を立て、自分の体を重たくしていく装備は、未だ慣れることがないものだった。 しかし、きっと数年後には当たり前の支度になっているのだろう。 その為に、アズリアは今ここにいる。 装備を着け終わり、背筋をピンと伸ばして鏡台の前に立った。 そこには「いつもの」アズリアが立っているようだ。 鏡台の中の彼女は、満足そうに笑う。 最後にブーツの感触を確かめるように、爪先を軽く床へ叩く。 さぁ、臨戦体制は整った。 敵は百人余りの同級生と…―。 時間は意外に早く進むように感じた。 「まだ誰かいるか!?」 「この辺には誰も残ってねーんじゃないか?俺達だいぶ取ってやったし」 「はは!違いない!結構楽勝だな…」 ぱらぱらぱら 「…………けほっ」 上からパラパラと落ちてくる土に、座り込んだアズリアは顔をしかめた。 その原因となっている、無神経な二人組にも。 「まともに歩くことさえ出来ないのか…!?」 アズリアは気だるそうに毒づく。 首を振ると、赤茶けた泥が落ちていった。 太陽は既に頂点を過ぎて暫くいる。予定されている終了時間まで、もう間もないはずだ。 剣の柄をそっと撫で、腰を上げる。 草葉の合間から視線を送ると、一段高くなった獣道を二人組が歩いていた。 その背は隙だらけ。いつでもいらして下さいと大声で叫んでいるようだった。 アズリアは下段をゆっくりと身を屈めて進む。 ぬかるみに足を捕られぬよう、慎重に足を下ろす。 再び近付けば、二人の話し声が耳に嫌でも入ってきた。 「明日の休み、俺の所来るか?」 「あ?なんかあんのかー?」 悠長に週末の話題を始める二人に、アズリアは眉をひそめる。 ―これが実戦なら、週末に休みがあるとか無いとか、そんな問題でもなくなってしまうぞ? 口元で小さく叱り、重心を低くした。上に上がる丁度良い足場を見つけたのだ。 話題は、片方の部屋で行われる賭けカードゲームに移っている。 数人が彼の部屋に集まり、カードゲームの一番に小銭を献上するらしい。 …馬鹿馬鹿しい。 彼女は嘆息すると、そっと道の上段に登る。 覆い繁げる木々に紛れれば、隠れることは容易だった。 呼吸を沈め、タイミングを図る。準備は十分であるように思えた。 …が、 「あ、なぁレックス呼ばないか?」 急な話題転換に保たれていた均衡が崩される。 意外な口から出た彼の名前は完全に不意打ちだった。 「んん?レックス?アイツ首席だぜ!?強いじゃねーか?」 「確かに強いかもしれんが、性格良いからなぁ…情を掛けて負けてくれるかも」 瞬間的な反応だった。頭の片隅では「やってしまった」と呟く自分がいたが、構ってなどいられない。 「この、大馬鹿ー!」 低めにしておいた重心を前に倒し、気が付けば二人の襟首を掴んで引き倒す。 柔らかい土が緩衝材となって怪我はないが、それぞれにそれなりの衝撃があっただろう。 一瞬何をされたか分からず、ぽかんと口を開けたまま二人はアズリアを見上げていた。 「今回の演習は単独行動が原則だ!二人で組んだら、それは有利に決まってるだろう!  それに、情けを貰ってまでする勝負に何の意味がある!  それで得た勝利で喜ぶ奴が、軍人なんて勤まるのか!?  というか、レックスはそんなくだらない事に情けをかけるような、馬鹿なお人好しじゃない!  勝負と言われたら絶対に勝つ気で来る奴だっ!!」 完全に頭に血を上らせた状態でアズリアは言い放った。 微かに息も荒れている。 「レ、レヴィノス…」 片方が呆然とした表情そのままの声をだした。 何が起こったかを認識するのに時間が掛っているらしい二人を無視して、 片膝をつきながら無理矢理背中を向けさせる。 「あ…!」 狼狽したような漏れると同時に、彼女の指は二人の背を伝った。 べり、と小気味良い音を立てて帝国章が手中に収まる。 「あー!!」 揃って後悔・焦燥・憤慨の混じった叫びが森にこだまする。 うるさかった。 二枚の帝国章をぐしゃぐしゃと丸めて自分のポケットに入れる。 そこでようやく、目が覚める。 手に感じた帝国章の手触りだけが、演習に対するアズリアの理性のようだった。 「これに懲りたら、次の演習は真面目にやるんだな」 泥を払いながら起き上がる二人に声を掛けると、 「ま、しゃーねぇな」「この時間まで残ってただけ、良しにしよう」 悪びれた様子もなく、顔を合わせて笑う。 「お前達…人の話聞いてるか…?」 「じゃ。」 「あと少し頑張れよ…ってレヴィノスに言っても関係ないか」 「…ふん。」 既に日は朝とは逆の方へ落ちつつある。 辺りが徐々に薄暗くなっていっているのが感じられた。 土を踏みしめながら、帰還地点まで戻ろうとする二人に背を向ける。 すると一人が追うように声を掛けてきた。 「なぁ、レヴィノス」 「?」 振り返ると、薄暗い中に心底不思議そうな表情が見えた。 「レックスってお前のなんなんだ?」 仲良いのか悪いのかわかんねーよ、という言葉にアズリアの口角はゆるゆると上がる。 レックスとイスラ以外の前でこんな素直に笑うのはいつ以来だろうか…そんなくだらないことを考える。 沈んできた木間を縫って、夕陽の光線が頬に当たるのを感じた。 先日よりは柔らかな、けれど燃えるように赤い色。 染み渡っていく赤に想いを馳せながら、アズリアは答えた。 「…さぁ、な?」 ポンポンと気の抜けるような発砲音が響く。空を見上げると、雲に混じって掛っている薄煙が見えた。 「…………はぁ」 終了の時間だ。 花火の上がった方にある集合場所へ向かいながら、彼女の思考は回転をする。 演習中に頭に血を上らせて飛び出すなど、場所や状況が悪ければ自殺ものだ。 「人の事を言えたものじゃないな…」 頭を振って自嘲する。 嫌だった。 彼を愚弄されるのが。甘い奴だけれど、物事の分別はつく奴なのに。 何も知らない人々から虚像を作り上げられ、利用させられるなど耐えられなかった。 だから…… 「結局、あいつのことばかりだ。」 悪くない。 むしろ、喜ばしい。 いつ、何故、心を奪われてしまったのかなんて一日考えたけれど正確には分からなかった。 それで良いのだと思う。 彼の笑う顔が一番好きだと感じる心だけで。 そして再び、夕陽の方へ目を向けた。 包まれるように暖かなその色と、ゆっくりと髪を揺らす風。 心地良かった。 痛いと感じたあの夕陽ほど鮮やかではないけれど、素直に美しいと思える。 とりあえず明日の朝、「おはよう」と言ってみよう。 前と同じようには返してくれないかもしれない。 自分が振っておいて勝手な女だと思われるかもしれない。 けれど、以前のアズリアにはもう戻れない。 相手を再び振り向かせようとするのではない。自分が変わるのだ。 今度は、少しずつでも想いを伝えていく。 そうしたら、もしかしたら、レックスは赦してくれるかもしれない。笑ってくれるかもしれない。 覚悟という程大それたものじゃない。 ただ願うのだ。 今までとは違う二人になることを。 気が付けば、指定された集合場所に辿りついていた。 既に多くの生徒が集まり談笑している。 大半は帝国章を奪われてリタイアした者のようであるけれど。 自由解散なのか、ぞろぞろと寮へ向かう列も見えた。 教官に到着の報告をすると、何処に行くでもなく歩を進めた。 ざわざわと落ち着きなく話している人々の間をすり抜け、落ち着ける場所を探す 。 …というのは建前で、実際のところアズリアの目線は普通より少し上へ向いてい た。 特徴的な赤髪を、探し求めているのだ。 しばらくキョロキョロと顔を動かしていた。いつもならすぐに目に入る。 しかし…― 「…まだ戻ってないのか…?」 ぽつりと呟くと、急に回りの景色が鮮明に見え始めた。 皆の落ち着きなさが、普段とは異質のもののように思える。 何かが、違う。 先から、いつもより人と目が合う回数が多いのも気になる。 違和感が、背中から覆いかぶさるように広がった。 一体何だというのだろう。 アズリアが立ちつくしていると、 「レヴィノス!」 終了の直前に放り投げた二人組がこちらへ向かって来ていた。 そちらに目をやると、焦ったように声を掛けてくる。 「お前!知ってるか!?」 「は?な、何だ一体…」 「レックスだよ!レックス!!」 「…レックスが、どうかしたのか?」 要領を得ない説明にアズリアが焦れていると、もう一人が言葉を継いだ。 「…レックスが演習中に崖から落ちて、意識不明らしい。」 「……え?」 するりとアズリアの口から息が漏れる。 思ってもいなかった単語に、一瞬前後不覚になる。 必死に頭を動かした。 「他のヤツが転びそうになったのを庇って、代わりに落ちたそうだ。」 「そん…な、レックス…病院、病院はどこだ!?  教えてくれ!」 「寮近くの…ほら、軍学校指定の病院があるだろう?あそこだ」 「……っ!ありがとう」 気がつけば、二人の間を割って駆け出していた。 赤い夕陽は山の稜線へ沈もうとしている。 一瞬、ベッドの上で悶絶する弟の姿がよみがえる。 血を抱え、肩を激しく上下させて泣き叫ぶ、その姿。 赤い、赤い、闇を孕んだ、赤。 アズリアに今見える沈みかけの夕陽は そんな風だった。