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駆ける 駆ける。 アズリアは演習場からひたすら病院までを目指していた。 既に陽が落ち、薄暗い空気が身にまとわりつく。抱えた荷物がもどかしい。 一日中走り回ったアズリアは、全身泥だらけで、 疲労も正直に言えば限界に達してしまいそうだった。 気持ちは逸るばかり。隠せない疲労は確実にスピードとなって表れるばかり。 けれど、そんなことは気にしていられない。必死に前へ前へと足を出した。 住宅地や商店街とは外れた所に位置している軍学校の近辺は、 夜が始まったばかりのこの時間でも人通りが少ない。 アズリアひとりが誰もいない街で走り回っているような錯覚を覚える。 霞む思考を奮いたたせるため、目をきっ、と見張らせる。 当てもなくさ迷っているのではない。彼の所へという目的の為だと。 灯りが見える。学校の寮だ。 アズリアは止まることなく寮の前を過ぎ、こっそりと、しかしやや乱暴に塀から 裏庭へ荷物と剣を放り出す。 身の軽さに気を休ませると、再び病院を目指して駆け出した。 病気のように息切れをする自分の声が、嫌に耳につく。 ひたすら石畳を打つ靴の音だけに集中した。 「レックス…!」 くじけてしまいそうな体と心を保つために、度々彼の名前を絞り出す。 幾分か、気が楽になるように思えた。 ただただ、彼に逢いたい一心で駆ける。 ―会って、どうする? 水を被せるように、冷静なままの自分が語り掛ける。 このまま向かっても、意識不明だという彼に一体何を求めるのだというのだろうか、と。 ―触れたい。 ひたすら前へ進もうとするアズリアが呟いた。 会って、触れたい。まだ彼はここに在るのだと感じたい。 それに、 「叩き、起こさないと…いけないだろう…!」 意識を迷わせているなら、引き戻してやらないと。そんな奇妙な使命感が彼女の 中に生まれているのだった。 「…レッ、クス…」 今更ながらに後悔する。 どうして。 どうして。 どうして言えなかったのだろう。伝える言葉も持っているのに、 術も知っているのに、どうして。 駆けるアズリアの視界が急にぼやける。 呼吸が、必要以上に荒れてきた。 ―本当は、言いたかった。 髪飾りをくれた時、「ありがとう」と。 夕陽で赤く染まる廊下で逢った時、「ごめんなさい」と。 好きだと言ってくれた時に、「私もだ」と。 言えなかった。 いつだって少しの勇気と覚悟が足りない。 その結果、彼も自分も傷付いてしまった。 問題は沢山。けれど、弟は静かに背を押してくれた。 家のことだって、まだ何も話が動いていないのに、 彼が認められる事は無いと決めつけていた。 結局こだわっていたのは自分自身。 大切なものには変わりないけれど今、今この瞬間、一番強い想いは何だ? 気づいた。ようやく気付けた。 愛してる。狂おしい程に。 だからこんなにも必死になれる。 逢いたい。 触れたい。 「…っ!」 穏やかな光が目にはいる。病院の玄関の灯りだ。 最後の気力を振り絞り、アズリアは重たい脚に力を込めた。 重たい扉を押し開け、やや乱暴に駆け込む。荒い息そのままに、 目を丸くする受付看護師へ縋るように声を掛けた。 「あの…!夕方、軍学校の…赤髪で…っ」 肩を上下させながら、なんとか単語だけを吐き出す。 混乱する頭で、我ながら情けないほどに文章が出来ていない。 けれど、パズルのピースを集めるように単語の意味を拾い上げた看護師は、 にこりと笑ってアズリアの背を擦った。 人の手の暖かさに幾分か息が落ち着く。 「演習中に怪我した患者さんですね? あちらの廊下の突き当たりが病室ですよ。」 看護師はゆっくりとした口調で部屋の方角を差し示す。 「大丈夫ですか?」 「は、い…ありがとうございます…!」 礼を言うと、無意識のうちにアズリアの足は動き出していた。 木目の床を急ぐ。ランプの光を辿っていくと、言われた通り突き当たりにひとつの病室が見えた。 ここだ、とアズリアの胸が告げる。 ぼんやりと明りが漏れるドアを勢いよく開いた。 暗闇に慣れた目を差す白色の光に目を細めるアズリアを迎えたのは。 「え、…アズリア!?」 彼女が思い続けた彼、その人だった。 頭に赤い髪と包帯を絡ませ、入院着に身を包んだレックスは、 新聞紙をめくる手を硬直させ、目を丸くして飛び込んできたアズリアを迎えた。 アズリアは後ろ手にドアを閉めると、再びパニック状態に陥る思考を震わせた。 レックスの声が聞こえる。 蒼い瞳がこちらを見ている。 心の準備もできていないうちに捕えられた瞳から逃げる術が、無い。 荒い息が整うのを感じると、小さくアズリアが問掛ける。 「怪我、…大丈夫なの、か?」 「あぁ、うん。あちこち打ったけど大したこと無いよ。…検査入院なんだ」 「お前…意識不明って…?」 「え、そんな風に言われてるの? …落ちて運ばれてる時は流石に気絶してたけど…」 人の噂は怖いねぇ、と人事のようにしみじみと言うレックスを見る。 それが、限界だった。 笑顔を見た瞬間 「……っ…」 「あ、アズリア!?」 膝を折り、アズリアは崩れた。 振り乱した髪の毛をそのままに、泥のついた手の平で顔を覆う。 明るく照明を反射する白い床に、水滴がぽたぽたと落ちる。 肩の震えが止まらない。 涙が、止まらない。 ただただアズリアの中には安堵感が広がっていた。 無事でいてくれた。 今まで散々傷付けた自分を、笑って迎えてくれた。 名前を、呼んでくれた。 優しい。 本当に優しすぎる。 それが辛い。 けれど救われた。 言うのは今しか無い。 覚悟も勇気も関係無い。ただ一心に伝えたいと思うだけ。 水滴の溜まる床を見下ろしながら、アズリアは声を絞らせた。 「…っ…きだ…」 「え?」 「好きだ………」 はっと息を飲む音がする。驚嘆の証。 彼の心にその後浮かぶのは歓喜なのか嫌悪なのか、そんなことは分からない。 けれど。 後悔するのは嫌だった。 「好き…だ。」 お人好しで、 いつもへらへら笑ってて、 甘ったれで、 とにかくバカで。 それでも強くて優しくて、 でも脆い。 そんな彼が、 「好きだ……レックス…」 愛しいと思う。心から。 ありったけの想いを込めて声を絞り出すと、 微かに息を漏らす声と同時に、ベッドの軋む音が響く。 そして 「アズリア…」 震える声で呟く彼女の背中に、 「…あ」 長い腕が回される。 少し顔を上げると、入院着の白が目の前に広がる。 わずかな圧迫感と同時に消毒液の匂いに混じった彼自身の匂いが鼻腔を掠める。 抱きしめられている。 そう自覚した瞬間、双眸から涙の粒が零れ、彼の肩を濡らす。 下ろしていた腕をゆるゆると広い背中に回すと、より強く締め付けられる。 アズリアの心に浮かぶのは、安堵の心だ。 切望していたものが、今こうしてここに有る。 温もりが、全てを満たしていくようだった。 「レッ…クス……」 黙ったままでいた彼が、不意に口を開く。 「信じて、いいんだよね…君の言葉、も…涙も…」 感情が昂ぶっているのか、レックスの声も震えていた。 服越しに感じる体温はどんどん上がっていく。 「…アズリアが、好きだ。  好きで好きで、仕方ないよ…」 それは、彼女がもう一度欲しくて溜まらなかった言葉。 手を伸ばしてはいけないと思う心があるからこそ、渇望してしまう。 本当は許されない気持ちなのかもしれない。 けれど現実には今、こんなにも幸せな自分がいる。 暫くして、それこそフラれて演習中に余所見して意識飛ばしてしまうくらいに。 おどけたようにそう付け足すレックスに、アズリアはくすりと笑う。 「何だ、そんな事が原因でこのザマか?呆れるな。」 「俺には重大事件なんだよ。」 「…まぁ、人のことを言えないさ。私も。」 緩められた腕から身を起こすと、涙目でこちらを眺めるレックスの顔が見えた。 その蒼い瞳が湛える優しい光に、アズリアは想いが通じあったことを実感する。 こんなにも穏やかで、満ち足りた心になることを、昨日の自分は想像もしていなかった。 微笑んで目を合わせると、彼は照れたように微笑み返してくる。 「色々考えてたんだよ。「貴族のお嬢様」と対等になれるにはどうすればいいかとか。  誰かの養子になるとか、軍で沢山武勲を挙げるとか。」 「随分先の長いことを考えていたんだな。」 「どれだけ先であっても、君のことは好きでい続けると思ってるからね。」 さらりと事も無げに言われる口説き文句に、頬が上気するのを感じた。 と、同時にアズリアの心に陰りが差す。 けじめをつけるために、あの事も言わないと。 「…レックス……本当に、すまない。」 「え?……何?」 首を捻るレックスに申し訳なさそうに、そっと頭を下げる。 「貴族とか、平民とか、そんなものに拘っていた自分が馬鹿らしい…  お前はお前で、私は私でしかないのにな。  本当に、酷いことを言った…ごめんなさい。」 再び顔を俯かせてしまったアズリアを慰めるように、絆創膏の貼られた長い手が 彼女の黒髪を指の間からするすると流していく。 一日外に居て埃っぽくなっているはずなのに、走ってきて乱れた分を直すように ゆっくりと丁寧な手つきで手櫛を進めていった。 「アズリアらしいと思ったよ。そういうの。」 「……私らしい?」 「君はひとつの感情だけの為に、他のものを捨てることなんて出来ないよ。  そして、自分のことよりも誰かのことを最優先に考える。…弟さんとか。」 「その分、お前を傷つけた。」 慙愧の念に襲われ、声を詰まらせる彼女の頭をポンポンと叩く。 そして頬に残る涙の跡をなぞりながら彼女を宥めた。 「もういいよ。こうして君はここに居るから。」 結果オーライ、というところか。 アズリアは彼の言葉に小さく頷いた。 「あぁ、…そんなに謝るならさ、アズリア」 「何だ?」 何事かを思いついた風なレックスは、包帯の巻かれた体をゆっくりと持ち上げてハンガーに掛けられた運動用制服のポケットを探りだす。 その様子をぼんやりと眺めていると、何かを手にして嬉しそうにこちらへ戻ってきた。 そしてそっと腕を差し出す。その手の平に載せられていたのは 「…まだ持ってたのか?」 「うん。…何となく。持ってて正解だね。」 先日、縁日の土産にと渡された髪かざりだった。 赤いそれは手に取ってみるとチリチリと鈴の音が鳴る可愛らしいものだった。 思えば、あの縁日の日…アズリアにとっては従姉妹の結婚式の日から始まったのだ。 アズリアの思い悩む日々が。 巡り巡って、最初の彼の目論見通りアズリア手の平に収まってしまった。 世の中、上手くいかない。 「これ、つけて見せてよ。」 「な!に、ににに似合わないっ」 「似合う!絶対似合う!何年君のこと見てると思ってるんだよ!」 「…!!」 熱弁を奮うレックスの勢いに押され、アズリアは手の内にある髪飾りをぎゅっと握った。 ストレートな言葉にどきどきと、落ち着いていた鼓動が波打つ。 「貸して。つけるから。」 「わ…レ、レックス…!」 やや強引に髪飾りを手に取ると、レックスは楽しそうにアズリアの黒髪を整え始めた。 すっとした感触を感じた次の瞬間には、満面の笑みを浮かべた彼の姿が見える。 「うん。見込んだ通り!  …すごく、可愛い。」 自分がどんな状態にいるのか分からないが、悪くはないらしい。 というか、何だかんだですっかりといつもの自分達に戻ってしまっていた。 これほどに、日常を愛しいと感じたことはなかった。 幸せで満ち足りた今この時。それを創り出してくれたのは、彼。 出会えたこと。 想いを通わせたこと。…なんて奇跡だろう。 言うなら今だ。 胸がいっぱいで視界がまた滲んできたけれど、構ってはいられない。 「レックス…」 「ん?」 「…ありがとう。」 ―貴方の、全てへ。 「俺も、ありがとう、アズリア。」 優しく囁くレックスの目からも、大きな涙の粒がひとつ零れ落ちた。 二人して床に座り込んで、泣きながら笑いあう姿は異様なものかもしれない。 けれど、それを見て咎めるものなど今はいない。 二人だけの静かな時間が流れていた。 ::::::::::