繋ぐもの



小さな客船は、島の向こうに見える水平線に沈んでいった。
その線から吹き付けてくる海風が、レックスのマフラーをばたばたとはためかせる。
大してそれを気にする風でもなく、彼は延々と海を見ていた。



否、海ではなく、その向こうにいる人間のことを。




いつもは朗らかな笑顔を浮かべているその顔も
今は寂しそうな影が落ちていた。


さっきだって、本当に笑顔でいれたかは怪しい。
頬が引きつっていたのは、誰でもなく彼自身がわかっているようだ。



それでも
笑顔をやめなかったのは。





こみ上げてきそうな涙に耐えていたから。





長い間の別れ。
涙だって、流しても良いと思った。




でも。
彼女が、笑っていたから。








「アズリア…」


遠くを見つめながら、溜息まじりに名を呼ぶ。
決して、返事が無い事は解り切っていたけれど。


「先生。」
その代わりに背後から聞き覚えのある呼び声がした。
声の主は、テコテコと危なっかしく歩く護衛獣を気にしながら
浜辺をレックスに向かって歩いてきていた。

「ウィル…どうしたんだ?」
呼ばれた声の主を見据えながら、レックスは小さく笑って見下ろした。
海風で乱れた髪の毛を、つまんで直す。


ウィルは不機嫌そうな顔でレックスを見上げた。

「……?」
「………」

「ミャー…」



しばらくお互いの視線をぶつけ合わせると
不意にウィルが呆れたように目を伏せた。



「全く貴方って人は…。」
「え。」



「彼女のこと、あきらめちゃうんですか?」
「…!」
テコを抱き上げ、苦々しそうに言う生徒の言葉に
レックスは動揺をした。

「な・・・何を諦めるって・・・?」
動揺を隠そうと無理やり乾いた笑いをこぼして
ウィルに背をむけ、再び海に目をやる。

「好き、だったんでしょう?」
「…………」


レックスの横に並び、ウィルは
海水に反射する光をまぶしそうに見ていた。
彼の横髪も風が吹き付けられて、バタバタとせわしなく舞っていた。




「――…あきらめなくちゃ、いけないんだよ。この恋は。」




しばらくの沈黙の後、吐き出すようにレックスは呟いた。
その声音は、彼にしては珍しく苦々しいものだった。



「俺は、この島に残ってたくさんやりたい事がある。…今更軍人にも戻れない。
 彼女も、家の事だって夢のことだってあって、…この島にはいられない。」



「交われない、道なんだよ。俺達が歩んでいるのは…」





そう言い切ると
ぶんっ、と頭を振って顔を上げる。
「アズリアも、俺も、…決めてたから。」


しかしウィルは冷ややかにそれを見上げていた。
眉をひそめ、小さく溜息をつく。
「そうですか。じゃ、貴方はちゃんとアズリアさんの事、吹っ切ったんでしょう?」
「…あぁ。」

いつもよりも毒の込められた言葉にレックスはたじろんでしまう。
しかし、彼の意図する所が見えず、困惑もしてしまう。


「吹っ切ったなら、どうして何時間もこんな所で彼女の行った方向を見てるんですか?」
「う…。」
「いつまでも戻ってこないから、みんな心配してるんですよ。
 …まぁ、ここに居ることは、大方予想がつきましたけどね。」
「ご、…ごめん。」

腕組みをしてレックスをねめ上げるウィルには
明らかな怒気がこもっていた。

「彼女はちゃんと吹っ切れていたようなのに、貴方ときたら…」
「それは…うう…」


ウィルの一言一言に、レックスの気力はしぼんでいった。
テコの2人を取り成すような「ミャ―ミャ―」という鳴き声も
何の効果も無く、そして慰めにもならない。




「偉いな…アズリアは…」
「ん?」
「…ちゃんと、…心に整理をつけてたんだよな。
 想いを、断ち切れていたんだよな。…俺と違って。」



ますます呆れたような顔をして、ウィルは今度は盛大に溜息をついた。



「そんなの、彼女が出来て当たり前じゃないですか。」
「え?」
レックスはぴくん、と驚いて目を見開く。
そして再び2人は目線をかち合わせる。


「先生は、前に彼女の想いを無理やり断ち切らせたじゃないですか。」
「………!?」
「何処に行くかも決めずに、相談もせずに、いきなり貴方は軍をやめた。
 しかも彼女が先生にまた会えるだなんて思わせずに
 彼女の前から消えていった。」
「…あ……」



胸の奥がじんわりと、熱くて痛くなった。
頭が、ガンガンと痛んできた。


「そして、再会をして…。」



あぁ、そうか。



「彼女はまた、貴方を好きになってくれたんですよ?
 ねぇ、先生。一度切った想いを繋ぎ直すなんて、簡単じゃないことだよ。」



俺は、俺は。



どうして気付いてあげられなかったんだろう?




「先生のこと、一番信じてくれて好きになってくれたのは、アズリアさんなんだよ。」





みんなのことを考えるのが精一杯で。
大切な大切な君の事を。



想って、あげられなかったんだ。


彼女の強さに甘えて、


2人の間に線を引いていたのは、俺自身だったのかもしれない。



ちょっとだけ、線を踏めば、
いくらでも彼女を楽にして、幸せにしてあげることが
出来たかもしれないのに。



ぽた。ぽたぽたっ。
「ミャーミャ…」
「先生…」
テコの額に水滴が落ちる。
悲しそうにウィルが見上げた先には。



「アズ…リ…ア…」
嗚咽をこらえ、拳をぎゅっと握り
ぽたぽたと涙をこぼした
レックスが、いた。




ごめんアズリア。
ごめん。




レックスは心の中で、何十回もその名を呼び、謝罪する。
謝っても届かない事は、むろん承知だ。
しかし、その謝罪は彼自身に向かって刃を突きつける。
自己弁護だ、逃避だって、解っているけれど。



「ごめん」

今度は小さく口にしてみた。
苦くて痛い感覚が体中に駆け巡る。





「ねぇ、先生。」
鼻をぐしゅぐしゅと言わせるレックスに、優しく手を添えて
今度は穏やかな目で彼を見上げた。


「今すぐは、無理だけど。
 彼女を、…アズリアさんを向かえに行きましょう。」
「…そんなこと…!!」
「でも、先生の想いは断ち切れてないんでしょう?」
「……っ」



背中をぽんっ、と叩いて、レックスの視線を再び海に向かせた。



「大丈夫。ちゃんと繋がっていれば、いくらでもやりなおせます。
 『あきらめないかぎり、信じ続けるかぎり、いくらでも可能性がみえてくる』
 それを教えてくれたのは、他でもない、貴方じゃないですか。」


テコが足元で小躍りして同意する。
それを見て、くすんと笑い、ね?とレックスを促す。



「そんなに簡単に割り切れるものじゃないでしょう?
 彼女も多分、全てを切ってしまったわけじゃない。」


「今度は、僕が先生の手助けをしてあげる。
 …だから。」
「ウィル…」
目じりに溜まった涙を袖でごしごしと拭く。

顔をあげ、そろそろと赤く染まっていく
海に目をやった。
水平線に船はもう、ない。



「……うん。アズリアの所に行きたい。
 今度こそ、アズリアだけを、見てあげたいんだ」
「彼女が、好きなんですね?」
「…あぁ。」



レックスの目にはいつもの光が戻っていた。
何があっても、信じ続ける光。
諦めない、その意気込みを包み込むように
オレンジと赤の融合した色が
レックスとウィルとテコにとけこんでいった。



小さく涙を流していた彼女を
今度こそ、この胸に抱いてあげるんだ。
想いをずっとずっと、繋げていたいんだ。




だから、ねぇ、アズリア。
もう少しだけ、待っててくれるか?




俺はそれまで、この水平線を
ずっと、見てるから。