窓際の最後列が、いつもの私の場所だった。


君の隣

天気は晴れ。柔らかな日差しが教室を照らしていた。 そこには黒板に板書をしながら、兵法について説明する教師の声が響く。 それをある生徒は真剣に、ある生徒はあくびを噛み殺しながら、 内容をノートに写し取っていた。 アズリアは彼女の気質からすれば珍しく、授業に集中していなかった。 否、集中出来なかったのだろう。 落ち着きなく、内容をほとんど把握しないまま、文字の羅列を書き込んでいる。 いつも最後列にいるのは彼女だけなのに。 ちらりと隣を見る。 普段は適当に空いた前の席で、少しだけ眠そうに授業を聞いているはずの彼が、そこにはいた。 「アズリア、隣良い?」 授業のベルが鳴る3分ほど前。 いつものように最後列の窓際に陣取り、バラバラと授業のノートを見ていたアズリアに 教科書を抱えたレックスがにこりと笑って席を示した。 「あ……あぁ。」 席はたくさんあるのに何故わざわざ此処なんだ、と文句が出そうになったが、 座席を選ぶのは完全に個人の自由で、拒否することなど出来ないのだと アズリアは生真面目にそう考えて、複雑そうな顔をしながらも頷いた。 いそいそと席に着いて授業の準備をしながら、レックスは上着のポケットから 手に乗るくらいの長さの袋を取り出した。 「見てみてっ!じゃーん♪」 中から何かを取り出して、後ろを向きながらごそごそしていたかと思えば 機嫌よくレックスは振り返った。 「…メガネ…?」 「そう!最近視力が落ちてさ、  あんまり黒板見辛かったんで思い切って買ったんだ。」 「へぇ…」 黒くて細いフレームのメガネをかけたレックスが、嬉しそうに笑う。 こんなに印象が変わるんだ、と素直にアズリアは感心をしてしまった。 メガネも似合うんだな…。 一番安いヤツだけど結構種類あるんだね〜悩んじゃったよ。と 話す内容をほとんど聞かずに、アズリアは彼の顔を見上げていた。 とんとん。 肩に指先で叩かれる感触を覚え、 授業中になんだ、という目でアズリアは隣を見た。 レックスは視線で机の上を示す。 アズリアが目線を手元に落とすと、そこには切り取って折りたたまれた 小さなメモ用紙があった。 訝しげに眉をひそめながら、紙を広げる。 『いい場所だね。』 そこにはそう書かれていた。 レックスを見ると、相変わらずにっこりと笑いながらこちらを見ていた。 アズリアは一瞬壇上の教師を見て、嘆息をして 小さなメモ用紙にペンを乗せた。 どうせこの教師は教科書の内容を読んでいるだけなのだ。 いくらでも追いつける。 レックス自身も、それを承知で手紙をよこしたのだろう。 こんなヤツに負けてるのか。 彼女は心の中で泣いてみた。 すっ、と頬杖をついた肘の下に紙を滑り込ませると 意外そうにレックスがこちらを見た。 返事を期待してなど居なかったのだろう。 いいから前を向いておけ、と目で示す。 『人がいないのが、私のお気に入りだったんだがな。』 レックスが邪魔だと言外に語っている。 我ながら可愛げのない返事だと思う。 間を空けずに再び紙が差し出された。 『これから、ここに座っていい?』 コイツは人の話を聞いているのか…?! 微かに手を震わせながらアズリアは肩を落とした。 嫌味に気付いていないのか、まるっきり無視しているのか。 どちらにしても答えは同じだった。 『嫌だ。』 返事を見て、大方予想通りの内容だったのか 紙を開いた途端にレックスの顔は苦笑いに変わった。 『せっかくメガネ買ったのにな。』 それを覗き込んで、アズリアは訝しげな顔をした。 意図が掴めていないと感じたのか、レックスは少しメモを引き寄せて 手早く追記をする。 『この場所じゃ、メガネがないと黒板が見えないんだ。』 『無理してここに来なくても良いだろう。現に今までお前は前の方の席で  充分授業を受けていたじゃないか。』 『でも君の隣がいいから。』 「こ…この馬鹿ッ!!!!」 「わっ、アズリアッ!!?」 スパーンッ!!! その返事を聞いた途端にアズリアの表情が豹変する。 顔を真っ赤にさせて勢いよく立ちあがったかと思えば ぺしッと手元にあったノートを振り上げ、レックスの頭で小気味良い 音を出した。 ぜーぜーと切れたアズリアの息が教室一杯に広がった。 講義をしていた教師の声は聞こえない。 その代わりにゴホン、という咳払いがひとつ 息切れを遮った。 「何を…しているのかな?」 「「……………………」」 剣の刃が床に触れ、重そうな音を立てた。 いつもなら剣を投げるなどという事は彼女はするはずもなかったが 今回ばかりは機嫌の悪さや、それが演習用の剣だったことから 無意識に扱いが酷くなっている。 既に窓の外は赤く、校舎を包み込んでいた生徒の喧騒も どこか遠くなっている。 しかし、授業中にいきなり騒ぎ出した2人は 授業妨害の罰として武術訓練で使い終わった剣を 綺麗に磨かなくては帰れなくなっていた。 何本目かとも知れぬ剣を レックスは窓際の床で座り込み、アズリアは良家の令嬢らしくなく木箱の上で行儀悪く足を組んでいた。 「遅くなるぞ、…お前は先に帰ってくれないか?」 手元で刃を磨きながらアズリアは面倒そうに言った。 レックスも同じように作業をする手を止めない。 「そんなこと駄目だよ。アズリアを残して帰るだなんて…」 「いや…しかし、こうなったのは私の責任だし。」 「元は俺の責任だよ。」 アズリアからは夕日の逆光で見えないが、 こんな時でも彼は笑っているらしい。 刃に反射された光に照らされて、その眩しさに目を細める。 そっと顔を伏せて、磨き終わった剣を放り投げた。 からんっ やけに大きく剣の落ちる音が続いた。 それっきりの静寂に耐え切れなくなったのか レックスは何かを誤魔化すように口を開いた。 「ねぇ、やっぱりダメ?」 「何が」 「…隣の席。」 まだそんな事を言っているのか。 思わず盛大な溜息をこぼす。 「今日みたいな事があっても、まだ言うのか?」 ことん、とレックスは床に剣を置いた。 体の脇に溜めておいた束のうちの一本を持ち上げる。 「嫌じゃないよ?ここにいるのは。」 随分陽が落ちて、室内も薄暗くなっていった。 それでも彼が笑っている、と雰囲気で解ってしまうのは それだけ、彼を気にしているということなのだろうか。 「だって、アズリアの隣だからさ。」 ようやく、アズリアの手が止まった。 意外な言葉に思わず息をのんで、まじまじとレックスを見下ろす。 「面倒くさい作業でも楽になるし。  多分、つまらない授業も面白くなる。  君の隣にいるだけで、俺は嬉しいから…」 「授業が『つまらない』などと思っているのか」 「え!あ、…あはは…!」 アズリアは自然と唇の端が上がるのを自覚した。 おそらく、彼の隣だから素直笑っていられるのだろう。 そんな感情に、思わず息を吐き出す。 「お前が貴重な授業時間を無駄に使わないように  私が見張っててやるよ。」 我ながら可愛げのない返事だとは思ったものの 真意は伝わったようで、 レックスは彼女の返事に満面の笑みで頷いた。