ひとつは決心するため。 ひとつは断絶するため。 そして、ただの未練。押される
明日の出発の準備も出来て、 手持ち無沙汰になった私の足は 自然と海賊船の方向へ向けられていた。 通い慣れた道。 「あの日」以来、何故だか私たちは、海賊船の 近くの浜辺、あいつの言う「はじまりの浜辺」で ほぼ毎晩語り合うようになった。 特に何があるわけでもなく、自然とそれは日課となっていたのだ。 ラトリクスからの距離はそれなりに遠いものだったけれど、 私自身はさほど苦だとも思わなかった。 最初はケガのリハビリという建前にして、自分にも言い聞かせていた。 そこで少し休憩していたら、偶然レックスが出てきたから話をする。 そんな誰に聞かすでもないのに作り上げた可愛げのない言い訳も 今は意味のないものに成り果ててしまったようだ。 浜辺へ向かう自分の足は、何処へ行くよりも軽い。 そんなことを自覚してしまっては、どんな言い訳も建前も脆く崩れてしまうのだ。 しかし、 そんな時間を過ごすのも、今日で最後だ。 最初から解ってはいた。 島に残ることなんて無い。いつかは帝国へ帰るのだ、と。 そうしたらアイツとも否応なく別れることになる。 同じ道を進む事はない。 そんな事実は最初から頭一杯に溢れて無理矢理認識させられていた。 だから、いつかこんな日が来る事を当然のように考えて。 それなのに、こうして浜辺に立つ瞬間でさえ、未だにアイツへの気持ちが薄れることはなく、 鉛色に感じる胸の痛みは確実に大きくなっていくのだ。 「もう出発の準備は出来たの?」 「あぁ、元々荷物なんてなかったからな…」 「そ…っか。」 お互いに何を話したものかか、と会話が止まる。 限界だった。 この場を離れることが出来るギリギリのところまで もう、きてしまった。 それを自分を包む空気でじわじわと感じ取ってしまう。 これ以上レックスの隣に居れば、とんでもない粗をさらけ出して 自分の中で侵してはならない領域に踏み込んでしまうことが 容易に想像できる。 取り返しがつかなくなる。 そんなことは嫌になるくらいに解っていたから。 まだ離れ難いと引っ張り込む心を強引に捻じ伏せて、 少し息を吐いてから立ち上がる。 身体全体が耐えられないくらいに重く感じた。 見下ろすと、奴は馬鹿みたく口を開けてこちらを見上げている。 「だいぶ冷えてきたな…私はそろそろ戻るよ。」 そして私は、笑ってそう言った…つもりだった。 言葉を発した後に、何も言わずに振り返りもせずに立ち去ればよかったと 後悔で目眩がする。 そうだ。もう明日には別れてしまうのだから、それ位の方が妙な未練も軽くなったのに。 笑えてなんか、いない。 笑ったつもりが、顔の筋肉が萎縮して頬が引きつるのを感じた。 案の定、みるみるうちにレックスの顔にも戸惑うような表情が浮かんだ。 逃げ出してしまおうかと思った瞬間に、レックスはきゅっと唇を結んで立ち上がった。 先までの高さの差は逆転され、今までにないくらいに真剣な視線を見上げるようになった。 「ね、アズリア。……ちょっと後ろ向いてくれる?」 「え?」 何を言うのかと思ったら、いきなり謎な要求をしてきた。 訝しげに首をかしげると無理矢理背を向けさせられた。 ゆらゆらと月の光が波に反射されている風景が目に飛び込んでくる。 たった今まで見ていたのと何ら変わりは無い。 一体何を、と聞こうとすると ぽん、と背中に掌の感触がした。 それは出合った頃よりも、随分と逞しくなって 包み込むように暖かくて大きな手だった。 少しして頭の上から声が降ってきた。 「大丈夫、アズリアならどんな道でも歩けるよ。」 先生のような声だった。いや、こいつは本当の『先生』だったか。 しかしその口調に思わず笑みがこぼれる。 こんな言い方ではまるで… 「私までお前の生徒なのかっ!?」 ぴくん、と背中に置かれた手が震え、より優しく撫でた。 相変わらずのへらへらとした笑い声が伝わってきた。 「あ、はは。そうだね、ゴメン。 でも、でもさ。俺はちゃんとアズリアの後ろにいるよ 君が辛かったり、苦しかったりする時は、君の背中を支えて押してあげるよ」 「レッ……クス…」 とんでもないことだ。 今まで必死に作り上げた壁は、またしても簡単に壊されてしまう。 壊された壁からは閉じ込めていた心が勢いよく飛び出して止まる事がない。 それくらい威力のある言葉だったのだ。 背中を押してくれることなんて、ほとんど何も無かった。 イスラのこと、家のこと、軍のこと、いずれも 私を追いかけるだけのものだ。 決して嫌なのではない。 これらが今の自分を作り上げて、自分を大きくする糧になるのは 身に染みてよく解っているから。 けれど、 背中を押す。 たったこれだけのことを、一体今まで誰がしてくれただろう? 「…っ」 遠くにある月がゆらりとにじむ。 嗚咽で震える肩を、両手でコートを掴んで抑えた。 目の前にある別れだとか、帝国に戻った時のことだとか そんなものは何も無しにして、今はただ 背中に触れたぬくもりが嬉しかった。 もう、大丈夫。 まだ悔いも、未練も、想う気持ちも捨てきれないけれど。 足元に続く道を、またしっかり歩けるようになるはずだ。 倒れても、しゃがみこんでも、 アイツは、ちゃんと後ろに居てくれる。 信じても、いいんだよな? 穏やかな気持ちが広がる胸に手を当ててみる。 馬鹿な話だけれど、背中に触れたレックスの手と重なった気持ちになれた。 「ありがとう」 まだ声は震えていたけれど、 その言葉は素直に唇から流れ出た。 「あぁ・・・っ」 こいつも泣いているらしい。 涙もろいのは、まったく昔から変わらないものだな。 浮かぶ苦笑はそのままに、その返事だけ受け取っておく事にする。 深呼吸をすると涙の余韻は吹き消された。 視界は既に鮮明だ。 あんなに重かった身体も、今ではいつもよりも軽くなった気がする。 大丈夫。レックスがいる。 そっと自分に言い聞かせ、ゆっくりと前に右足を出した。 「じゃあ、また明日。」 全く振り返ることはせず、砂を蹴りながら来た道を戻った。 アイツの顔を見ることで痛む心がたっぷりと残っているのは本当だったし、 離れることの出来るまでの限界だったのも、確かな事実なのだ。 それに、 わざわざ振り返らなくても、レックスは後ろに居てくれる。 そう信じていたから。 最後の夜が、更けていく。