歩幅

「…そろそろラトリクスに戻るよ」 「え、もうそんな時間か…  うん、気をつけて帰るんだよ?」 毎晩のように行っていたアズリアとの談笑は いつも、月の傾きが鋭くなるのに気づいた彼女から 『また明日』と打ち切られるのが常だった。 どんなに話をしても話題は尽きることもなく、 彼女と離れることも惜しかったので、その宣告は おやつを取り上げられた子供のような感覚を レックスに持たせていた。 しかし、お互いに朝は早く いつまでも起きていれば次の日に支障が出る。 それが解っているので少し残念そうな笑顔を浮かべて 「気をつけて」と忠告するのもまた、レックスの常であったようで。 その度にアズリアは自分の腰につけた剣を軽く叩いて 「誰に言ってるんだ、誰に。」と、苦笑するのだった。 飽きもせずに、毎晩こんな遣り取りをしている。 しょうもないことではあったけれど、 今まで敵同士であった以前二人では、考えられないことだ。 願っても、叶わぬものだったのだ。 だからこれ以上も、今は望めない。 今の幸せは今のままで良いのだ、と 海賊船へ上るための梯子を登りながら彼は無理やり 溢れてならない気持ちを押さえ込んだ。 とん、 静かに下ろしたはずのスニーカー越しの足音は 皆が寝静まった甲板に大きく響いた。 月の光だけが世界を照らしているこの時に聞こえるのは、 波が打ち寄せる音と、びゅうびゅうと鳴る風の音だけ。…だった。 「あら、センセじゃない。」 部屋に戻ろうとすると、それなりな小声で船頭から自分を呼ぶ声がした。 今のところ、自分のことを『センセ』と呼ぶ人物を 彼は1人しか知らない。 「スカーレル…何やってるんだ?」 案の定、視線の先にはしっとりとした雰囲気で 船の手すりに腰掛けている海賊団の一員、スカーレルが居た。 他の船員や生徒を気にして、レックスも声を潜め気味にして返事をする。 すると、スカーレルは「うふふ…」と含み笑いをしながら 顔の横で細めのボトルをぶらぶらとさせた。 中身は三分の一程度で、揺らした振動につられてその形状を変える。 彼は手招きをするので、レックスは少々苦笑いをして スカーレルの横に「よっ、」と一声上げながら 飛び乗るように腰掛けた。 ふっ、と一息ついて 「今日はヤッファの所じゃないんだ?」 と聞く。 島内で意外と思える交友関係を知ったのは先日のことだった。 「えぇ、…たまには、1人でね。」 そうしてまた先のように含み笑いをする。 何かの影がぼんやりと落ちたように見えるのは、レックスの気のせいではないだろう。 しかし、その理由を聞くことはなかった。 今は聞くときでもないし、聞いたところで自分にどうにかできるとは 到底思えるものでもなかったのだ。 「そう。」 曖昧に返事をして子供のように足をぶらぶらさせていると 今度はスカーレルが 「センセは…今日も隊長さんと?」 と、問う。 「…!…やっぱり、知ってた……?」 レックスは声を詰まらせながら、思わず聞き返す。 アズリアと毎晩のように会っている。 まだ、公然とは言っていない事実だった。 ―悪いことをしているわけではないし どちらかが隠そうとしているわけでもないけれど。 何となく、気恥ずかしいものがあったから。 レックスの返答に、スカーレルは思わず顔を綻ばせる。 「何だよ…」 「気づかれてないと思った?  甲板から隊長さんが帰る姿バッチリ見られるわよ。  その直後にセンセは帰ってくるし。…逢引なんてやるじゃない」 最後は目線を流して肘でぐいぐいと突いてきた。 「あ、逢引って…そんなんじゃないよっ!!」 「あら、そーぉ。へーぇ…」 必死で抵抗すると、意外にあっさりと手を収め、代わりに楽しそうに 相槌を打つ。 レックスはもうどうしようもなくて、大きく息を吐くと肩をかくんと落とした。 「それにしてもセンセ。  隊長さんって、いっつもあんな歩き方なの?」 「え?…歩き方?」 無理やりグラスを持たされ、その中にトクトクと酒を注がれる。 中を覗くと間抜けな自分の顔が浮かびあがった。 「そ。…背筋はピンと張ってるんだけど、すごく足早で。  女の子にしては少し大股だしね。」 「うーん…あんまり、…意識したことはないなぁ。」 ちびちびと酒を含ませながら、先まで隣にいた彼女のことを思い出す。 学生時代の頃から、周りとは違った子だった。 授業中や戦闘訓練、何気ない移動や食事の時。 いつでも背を伸ばして『軍人』のような姿勢だったように覚えている。 その姿はとても綺麗で、自分自身も見習うべき部分だった。 「ねぇ、センセ。隊長さんは割と背が低いのね?」 「…あぁ、そうだね。アルディラやミスミ様より少し小さいくらいだよ。」 自分の目線を思い出しながら、周りの女性と比較してみる。 いつもその堂々とした姿勢から忘れがちになっているが、 よく見てみれば、意外と背が低めの部類に入るようだったのだ。 「で、センセは隊長さんと一緒に歩くときに、歩く速さとか気にしてる?」 「…それも、特に意識は…。」 学生の頃からそうだった。 自分のペースで歩いても、当然のようにきちんとアズリアは横に居る。 スカーレルは自分のグラスが空になったのを見て 何のための質問なのかよく解らないでいるレックスの手からグラスを ぱっと取り上げる。 「なっ!スカーレル!?」 急な仕草にレックスは非難の声を上げるが、スカーレルは人差し指で つん、と彼の鼻をつつきながら手元のグラスを再び空にする。 「女の子の気持ちが解らないセンセは、没収よ!」 「…スカーレルにはわかるの?」 少し渋い顔をしながら、指伝いにスカーレルを見る。 その様子に微笑みを浮かべて肩をすくめる。 「少なくとも、センセよりは解ってるわ?」 「・・・・」 足元に置いたボトルに蓋をして手すりを降りた。 流れる腕にまかせてそれを振りながら、スカーレルは振り向いて笑う。 「そうねぇ、・・・明日は隊長さんをラトリクスまで送っておあげなさい」 「ラトリクスまで?」 「そう。…その時は、ほんの少し、気持ち程度にゆっくり歩いてなさいな。  そうしたら…隊長さん、楽になるでしょうね。」 再び眉をひそめるレックスに 「じゃ、おやすみなさい」と呼びかけてスカーレルは部屋に戻った。 首をかしげても言われた意味が解るはずもなく。 空には角度が鈍くなっていく月が浮かんでいるだけだった。