空を仰ぎ見れば、そこには雲ひとつない青が広がっていた。


後ろを振り返り見れば、そこには眩しいほどの深緑がざわめいていた。


おそらくはもう二度と、見ることのない景色。
後悔なんて、ひとかけらもない。





むかしのはなし

「隊長さん、準備は出来て?」 突然真上から声をかけられ、内心少し驚きながらその方向に顔を向けると、 目の前にある船の手すりからスカーレルが覗き込んでいた。 驚いたままで「あぁ。」と頷くと、彼は綺麗に化粧が施された面長な顔を微笑ませて もうすぐ出発だから、そろそろ船に乗って頂戴。 と、言った。 言われた通りに、船の横に掛けられた梯子をゆっくりと登る。 真上から当たる太陽の光が、何故だか凄く鬱陶しかった。 とん、と軽く音を立てて船に乗り込む。 しばらく足元を踏み慣らすように歩き回ってみた。 今までの出来事に、思いを馳せながら。 いつものように任務についていて、ただの帝国の船で流れ着いただけなのに。 その帝国へ帰ろうと乗り込んだ船は、何故か軍とは絶対的に敵対関係にあるはずの海賊の船。 ギシギシと足元できしむ木材に思わず苦笑いをする。 隊長さん、と声を掛けられる。 振り返ると先に見上げた顔がそこにはあった。 その斜め後ろにこの船の船長が居るのも認め、 「帝国まで、よろしく頼む」 薄く笑い、頭を下げた。 『軍と海賊』という敵対すべき関係にあっても、今のうちは未だ『仲間同士』なのだ。 この島で起こった争いで共に戦い抜いた仲間。 レックスと島の住人たちが絶対的な信頼で結びついていったように、 最早アズリア、ギャレオとこの海賊一家にも、お互いに切り離せない感情がが芽生えてきているのだった。 それを証明するようにわざわざ頭を下げるアズリアに、船長であるカイルが いいってことよ、お互い様だ。と豪快に笑い飛ばした。 「センセに挨拶は済んだの?」 カイルが船頭へ向かうのを見送ると、スカーレルがすっと隣に立って こそりと囁くように聞く。 何でもないように尋ねてはくるが、その眼光は鋭い。 何もかもを見透かされているようで、それがどことなく『彼』に似ていた。 だからつい、ぶっきらぼうに彼女は応えた。 「挨拶ならギャレオと一緒に島を周ってしてきた。もちろんアイツにもな。」 随分と可愛げのない言い方だと自分でも実感する。 目を合わせていられなくて、海の水面を覗くように目を伏せる。 「…そう。アナタがそれで良いなら大丈夫ね?」 いくつもの事柄を口に含めて言う。 そのひとつひとつが解るからこそ、耳を塞ぎたくなる。 部下を失い、弟を失い、おそらくはこれからの道も狭まった。 これ以上無くすものなどないのだ。 だから、 アイツにこれ以上会ってはいけない。 後悔はない。 後悔はない。 後悔は、ひとかけらもない。 「でも、センセはまだ挨拶が終わってないのね。」 不可解な言葉に顔をあげて目線を隣にうつす。 先のような、何もかもを見透かされてしまっているような笑顔が見えた。 そしてスカーレルが指差す方へまた目を移す。 「…レックス…」 船が泊めてある砂浜に、眩しいほどの赤い髪をなびかせたその人がいた。 アズリアは思わず手元の荷物を、痛いほどに握りしめていた。 その荷物をぱっと取ると、今度は今までとは全く違う、優しい微笑みでスカーレルは言った。 「いってらっしゃい、隊長さん。 荷物の準備はアタシがちゃんとしておくから。」 頭をポンポンと撫でて、アズリアに背を向けた。 その時既に、彼女は梯子に足をかけていた。 音も無く砂浜に飛び降りる。 割と高い所で飛び降りたので、レックスは少し心配そうにアズリアを見ていた。 「どうしたんだ?まだ今日は学校だろう」 10センチ以上離れている目線を見上げて腕を組み、少し不機嫌そうに尋ねた。 準備で忙しいんだ、くだらないことは言うなよ。と言わんばかりに。 これくらいでないと、アズリア自身が不安定になってしまうから。 「うん…でも、アズリアにもう一度話がしたくて。」 「…話?」 そんな彼女の雰囲気を気づいているのか、いないのか。 どちらかは分からないが、いつものように人の良い笑い方で頭を掻いた。 そしてしばらく俯いたまま黙り込んだ。 再び口を開いたのは1分後。 「…あのさ、こんな事言うとアズリア凄く困ると思うんだけど。」 『話がしたい』と言い出したのはあっちなのに、未だに腹をくくっていないらしい。 一体何の話か展開がみえず、そして彼の言動にも呆れ、 今度は本当に眉を顰めてレックスを見上げた。 「なんだ?そんな他人行儀な。言ってみろ。  どうせ、『また島に戻ってこないか?』とかそんな所だろう。」 ため息混じりに促すと レックスは焦ったように顔をあげる。 「ち、違うよ。…俺さ、」 「…あぁ。」 こくん、 柄にもなく緊張しているのか、目の前の喉仏が上下した。 今度は真っ直ぐこちらに目線を合わす。 すうっと息を吸う。 「俺さ、アズリアのこと、ずっとずっと好きだった。」 「…………はぁ!?」 予想外の言葉に思わず間抜けな声が滑りだした。 目を見開いてあっけにとられていると 同じように曖昧に笑いながら 「えと。だから、困ると思」 「何だそれは!?お前にはちゃんとした…そう、  ちゃんと恋人がいるじゃないか!!!」 「え、あ。うん。居るね…」 「しかもそこは照れるような所でもない!!」 何なのだろう。 この男は今、何を言ったのだろう。 「アズリアのこと」が「好きだった」? 冗談じゃない。 大体何故今ごろそんな事を言うのだろう。 アズリアは混乱した頭で、学生時代のように レックスを叱った。 叱られたはずなのに、彼は満更でもないように笑って頷いた。 「うん…でも、だから君にこうして話が出来るんだよな。  俺も、新しい道をみつけて、君も元の道に戻って。  今を逃したら二度と言えないと思って。」 今度はアズリアが俯いた。 必死に目の前の彼が話す言葉を脳内変換しようとしている。 「君のこと、綺麗に思い出に出来ると思ったからさ。」 「…勝手だな。こんな今更。」 「アズリア?」 「どうして、今になって言うんだ!」 「え…」 レックスの目が見れなくて、ただ彼のスニーカーを凝視して声を絞りだした。 「私も…ずっとお前のことが好きだった。」 そう言い放った途端。 力強い感覚がアズリアの身体を包み込んだ。 耳元でレックスの息遣いが聞こえる。 「こ、コラ!レックス!?  誰かに見られたらどうするんだ!」 じたばたと暴れるアズリアを押さえ込むように腕に力をこめ 声をたててレックスは笑った。 「いいじゃないか。  古くからの親友との別れの抱擁だよ。」 「親友…って。」 『友達』でもなく『恋人』でもなく。 確かに、この2人を形容するには『親友』というのが 一番近いのかもしれない。 もしくは、『戦友』になるのだろうか。 しばらくレックスに身体を任せていたが 腕が疲れたのか、腕の力が抜けたと同時に深く息をついた。 「参ったな。  誰にも言わないつもりだったのに。」 『お前』が『好き』だなんて。 変わらずにアズリアを抱きしめたまま 「俺にも?」 と聞く。 「当たり前だ。  彼女のいるヤツに手を伸ばして修羅場だなんて冗談じゃない。」 「あはは。」 本当に冗談じゃない。 レックスのために、自分を窮地に追い込むだなんて 馬鹿らしいにもほどがある。 それならば、身を引くほうが、よっぽど良い。 そんな気持ちは、おそらく彼に限定されるのであろうが。   叶うことのないこの気持ちを捨てて 彼に思うことは、ひとつだけ。 「アズリア。」 レックスはアズリアから腕を離し、今度は肩に手を置いて 彼女の目を覗き込む。 今度は真っ直ぐに目を見ることができた。 「幸せに、なってくれよ。  俺には君を幸せに出来る力も権利もないけど、  ずっとここから願ってるから。」 真剣な目で、彼はそう言った。 アズリアの肩から、ふっと力が抜けた。 唇が上に上がるのを感じる。 「その言葉、そのまま返すぞ。  …まぁ、この島にいる限りは大丈夫か。  幸せに、なってくれ。」 あぁ、やっと笑えた。 互いの言葉に2人で頷くと、今度こそ本当の『親友』の抱擁。 今度はアズリアもそっとレックスの広い背中に手を回した。 自分は失恋というものをしたはずなのに 今の心は今までにない程穏やかなままだった。 そして意外なほどに後の言葉が口から抜け出した。 今まではなかなか照れて言えなかった一言。 心からの言葉。 「ありがとう。レックス。」 静かな礼の言葉は、同じように静かに 「俺も、ありがとう。」と返ってきた。