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リペアセンターの廊下を歩くと、靴の音が反響し、消えてゆく。 歩みは緩く。いつもの彼女より半分ほどの速さで。 初めはその光の差さない無機質さと、帝国では珍しいその床や壁の材質に慣れなかったが、 今ではもうよそ見をしていても部屋に辿り着けるほど、この建物に馴染んでしまった。 否、馴染まざるをえなかった。 アズリア自身がこの場所へ落ち着いたのは10日ほど前である。 普通ならまだまだこの空気を自然に吸えるかどうか、の日数だろう。 しかし、彼女の左足はそんな悠長な時間を与えてくれなかった。 無色の派閥―――引いては弟との戦闘で、アズリアは左足を負傷した。 彼女の強さには、その俊敏さも深く関わっている。 軽いフットワークで敵の懐へ潜り、突く。 その剣筋紫電の如し。 「紫電の戦姫」と呼ばれる彼女にとって、足の負傷は深刻だ。 ギャレオの意識が戻るのを確認した次の日には、この廊下でリハビリを始めた。 フラーゼンにはあまり好ましい目で見てはもらえない。けれど、どうにか頼み込んで、往復を続けた。 今では、元の速さへと限りなく近付いている。数日前までの話なのに、妙な懐かしさを覚えた。 今日はこのリペアセンターの留守を預かっている。 クノンは薬の為の鉱物を取りに、アルディラは設計図の確認をしに海賊船へ。 そのために、何もありはしないだろうが、見回りがてらこうして歩いているのだった。 もうしばらく歩くと、診療室の扉が見える。 ここも、通い慣れてしまった部屋だ。 シュ、と音をたてて足を踏み入れる。 ――――と同時に、電気のついていない診療室にうごめく黒い影が目に入った。 「誰だッ!」 先日剣を交わらせた暗殺者達の面影が、一気にアズリアの背筋を駆け上がった。 こんなところで。 こんな時に…! 緊張しながら剣の鍔に手を掛け、壁に取りつけた電気のスイッチに手を伸ばす。 叩くようにパネルを押すと、瞬間的に部屋は白色の光に包まれた。 そして、 「あ…アズリア!?」 黒い影の正体も、間抜けな声と特徴的な赤い髪で判明する。 剣へとかけていた手をゆっくり下ろすと、アズリアは呆れたように溜め息をついた。 「こんなところで、泥棒ごっこか。先生?」 不服そうに立ち上がり、レックスは左手に持った包帯を示す。 「お医者さんごっこ」 同じように掲げられた右手にある大きな裂傷を見つけると、彼女の口からは再び溜め息が溢れた。 先程よりも重たく。 「助かるよ、やっぱり利き手だと上手く巻けなくて…」 白い包帯が幾重にも巻かれた自分の右手を撫でながらレックスは笑った。 「解ってるならクノンの居る時間帯に来い。」 仕上げのくくりを終えた合図に軽くその腕を叩く。 自分よりも大きくてがっちりとした腕は、電流が流れたように跳ねた。 緊張した面持ちだったレックスの身体は、治療が終わるのが判ると同時にソファーへ沈んだ。 二人並んだ3人掛けの椅子がギシリと音をたてる。 しばらく確かめるように腕を動かしていたレックスは、ばつが悪そうに頭を下げた。 「い…いや、アズリア。包帯自体は、今朝代えてもらったんだけど。」 「…はぁ?どうやったら半日で包帯がほどけるんだ?」 思わぬ発言にアズリアは呆れたような声を出す。そして続きを促す彼女の仕草に ますます身を縮こませながら、レックスは言葉を進めた。 「実はさっきさ、竜骨の断層にはぐれ召喚獣が居るって聞いて…」 「一人で行ったのか!?」 「あー…ごめん」 「お前…ッ!」 怒気を孕んだその声にレックスは身をすくませる。 …しかし、その頭上に厳しい言葉はいつまでも降り掛かることはなかった。 「アズリア…?」 おそるおそる顔を上げるが、そこにはレックスの思っていたようなアズリアは居ない。 そこには、寂しそうに眉を寄せる彼女がいた。震える肩を寄せることも出来ず、 レックスは見慣れない彼女の姿を眺めるだけだった。 暫くの沈黙。 居心地の悪くなったレックスが、どのように現状を打破すべきか思いを巡らしている時。 不意に顔を上げたアズリアがかすれた声で呟いた。 「………脱げ。」 「あ、うん。…え?」 一瞬合った瞳が今にも泣きそうに赤くて。 初めて見る色に気を取られ、爆弾のような発言を取り溢しそうになる。 「いいから早く脱げ!!」 頭いっぱいにクエスチョンマークを浮かべたままの彼に痺を切らし、アズリアは 勢いのままシャツのボタンへ手をかけた。 「え、ちょっ…アズリア!?」 腕を捲るために既に脱いでいた赤いジャケットを一瞥して、慌ててアズリアを引き離そうとする。 脳内を瞬間的に駆けた想像を振り払う術はなく、掴んだ肩の細さにさえ誘惑される。 白いシャツのボタンを全て外されたレックスは、服へ掛けたままの彼女の手にそっと触れた。 反応は鈍く、変わらず泣きそうな瞳でゆっくり面を上げた。 黒耀の双眸に射抜かれる。 「…分かってるんだからな。」 「え…?」 迷ったように声を溢すレックスに焦れたアズリアが再び噛みつく。 「この服の下の怪我!こっちの包帯だってマトモに巻けてないんだろう!」 息を切らせながらアズリアは叫んだ。無機質なリペアセンターの壁に共鳴する。 「あ…包、帯…?」 彼女の意図することを汲み取ったレックスは、ゆっくりと息を溢す。 他に何をするんだ、という視線を投げ掛けながらアズリアは、 白いシャツを彼の肩から落とした。 「…一人では巻けないだろう。」 曖昧に頷くレックスの、黒いインナーの上から、そっと細い指が傷をなぞった。 窓のないこの診察室の照明は、ラトリクス独特の人工の光だ。 青白く照らされたその肌は、日光の下よりも白い。 その頬が上着を全て脱いだ時に微かに紅潮していたのは、気のせいだっただろうか。 「まさしく傷だらけ、だな。」 アズリアは目の前に現れた多くの傷に思わず息を飲む。 包帯を取りながらぽつりと呟いた言葉に頭上から笑い声が帰ってきた。 「…でも、この傷だけ誰かが傷付かずに済んだよ。」 「だからお前は馬鹿だと言うんだ…」 寂しげに目を、アズリアは細めた。 細めた目に涙が浮かぶのを、レックスは不思議な心持で眺めた。 そして再び、ソファーの軋む音が響いた。 「アズリア……」 「馬鹿。大馬鹿。」 「………」 微かに聞こえる嗚咽と、胸元に感じる黒髪の感触と、肩に覚える重み。 溢れだした彼女の感情にレックスは身を任せた。 「お前が怪我して、皆どれ程心配してるか…分かってないだろう」 「…ごめん」 「はぐれくらい、お前一人で行かなくても、誰かに任せられるだろう」 「そうだよね、ごめん」 「いつも…無茶ばかりだ…」 珠のような涙をポロポロと溢しながら、アズリアは言いつのる。 「それしか、俺には出来ないからね」 細い肩に手を置いて、彼女の顔を覗きこむ。 泣いている事実を認めないかのように、ただ目を伏せているままの瞼に親指をそっと添えた。 撫でるように涙を拭うと、ようやくアズリアの黒耀の瞳が覗く。 レックスが困ったように笑うと、逆にアズリアは眉を寄せた。 「…守られろとは言わん。心配されるような剣の振り方は、しないでくれ…。」 頼むから、と言葉を選ぶ。 私が守ってやると叩き付けられたら、どんなに楽だろうか。 背中を預けるにふさわしい相手だからこそ、自分の身を案じてくれ。 そう語り掛けるしかなかった。 「それは、君もじゃないか。」 「…え?」 瞬間。アズリアの体はレックスの長い腕に包まれた。 元軍人とは思えない細くて長い指が彼女の背中を撫ぜる。 「君だって…怪我ばかりだ。」 替えたばかりの包帯の白ばかり見ていた。 耳元で囁かれる低い聞き慣れない声に、再び頬は紅潮していく。 それを振り払うようにアズリアは叱咤するような声を絞り出した。訴える。 「お…お前のような無茶はしない。自分の分くらいわきまえて動くぞ」 「俺よりは…ね。」 「…」 二の句を継げない彼女の様子にレックスは笑みを浮かべる。 彼女の無茶も相当のものだ。昔と変わらず。 淡く花の匂いが香る黒髪にくちづけるように顔を埋めると、 先以上に包み込んだ体が固く緊張した。 その仕草が、可愛いと思う。 「心配なんだよ、君が。」 「…それは、…私が女だからか?」 棘々しい言葉に、心外だと言わんばかりの溜め息をつむじに落とす。 「レックス…!」 「アズリアだからだよ。」 吐息に混じらせ言う。 「やっぱり、君が怪我をするのは嫌だ。…怖いよ、すごく。」 アズリアの顔は見えない。 しかし、抱いた細い身体の体温は上がる一方。 彼にはそれで十分だった。 落ち着かせるように背中を撫でながら、酷く小さな声でレックスは語り掛ける。 「…分かったよ、アズリア。必要以上の無茶はしないよ。」 「必要以上って何だ。極力控えろ。」 胸元からくぐもった声が聞こえる。 渋ったような呆れたような、いつもの調子に戻ってきたようだ。 安心して、より一層頬が緩む。 こんな表情を見たら、腕の中の彼女に何て締まりのない、と殴られるだろう。 自覚はしていても、引き締められるものでもなかった。 「アズリアを守るための無茶くらいは、許してくれよ」 怪我をすれば、心配で。 己を盾にするような、そんな無茶をしてほしくない。 守りたいと思う。 自分を大事にしてほしいと思う。 お互いにそう思っていた。 学生の頃からぶつかる事は多かったけれど、案外似た者同士だったのかもしれない。 それが、嬉しかった。 腕の力は弱まることなく、アズリアを包んでいた。 熱る体をそのままに、どう考えても酷い自分の分の悪さを実感する。 どうあがいても、結局レックスの方へ流されてしまう。 もう、とうの昔に諦めてしまっている。 とことん、彼に甘いのだ。 それも悪くないと、アズリアの心の底が呟く。 流されていく感情もまた、この体温のように心地良いから。 耳元で聞こえる早い心音が、のんびりした彼のようではなくて、 何だか可笑しかった。 穏やかに微笑んでアズリアは 「…馬鹿だな」 静かに呟いた。