その日は酷い雨だった。
まだ日の入りまで数刻あるというのに、叩きつけるような雨で辺りは薄暗かった。
馬車の幌を叩くばしばしという音だけが耳に残っている。






ばしばし






ぱしぱし







はし、ぱし、








ぱらぱら






ぱ

ら

ぱ

ら







雨の中で

「馬鹿は風邪をひかないというのは嘘だな」 「…別に俺、風邪ひいてないけど。」 「馬鹿という自覚はあるのか。驚きだ。」 「…………うん。」 無理矢理口角を上げる。揺れた赤毛の前髪から数滴雨粒が溢れた。 額に張り付く前髪越しに見た彼女は、3歩横でレックスを見ていた。 寂しそうな、辛そうな。 もうどれほどの時間、ここに立っているだろうか。 ほぼ無意識のうちに外へ出ていた。 一度や二度のことではない。雨が降る度に、あの中へという衝動は湧きおこった。 打たれて、濡れて、冷やされて、 そして思う。 「あの時とは違う…」 頭上を見上げ、レックスは落ちてくる雨粒に目を細めながら空を睨んだ。 変わらず雨はしとしと降り続ける。 唇は弧を描く。今度は自然に。 獰猛なその横顔を見ても、アズリアは一言も発さず、そのまま同じように空を見 上げた。 視線の先には曇天が広がる。 しかし薄いそれからは、所々向こう側からの閃光が漏れ出していた。 もうじき雨も止むのかもしれない。 「あの時も、雨だったんだ」 「……。」 アズリアには「あの時」がいつを、何の出来事を指すのか図りかねた。 絶対的な信頼と愛情はここにあるが、 過去の全てをも包んでしまおうとは、互いに思わなかったから。 無理矢理聞き出さないといけない事と話すまで待とうとしている事。 アズリアが分かるのは、今レックスが後者に捕えられているという事実だけだった。 故に、何も言えない。何も、言わない。 ただ、彼が口を開けば全てを受け入れようとしているだけだった。 曇天から落ちてくるのは、いつものスコールではなく、汚れを洗い流すように静かに降る雨。 とめどないそれはアズリアの頬を伝い、黒地のスカートへにじんでいく。 肌に感じる柔らかい雨は、それでも冷たい。 指先は痛くなるほど冷えていた。 肩に掛かる黒髪からぽたぽたと雫が落ちてゆく。 何だか悲しかった。悲しい気分になった。 視線を上げると、レックスは変わらずぼんやりとした何かを見ようとするように、 雲のまたその向こうに目をこらしている。 彼には何が見えているのだろう。 何を見ようとしているのだろう。 過去を全ては知り得ないアズリアには、視界に映るものを察することは出来ない。 出来ないのが、 悔しい。 足は勝手に動き出す。 三歩の距離を二歩で跳び、全身で泣いているかのようにずぶぬれなレックスの胸へ 帝国軍仕込みの当て身をくらわせた。 「うわッ!」 ばしゃん! ぬかるんだ土が、降ってきた衝撃で跡をつけた。 大きな水音の後には、辺りに雨音とレックスのうめくような声が響く。 アズリアにとって誤算だったのは、ぬかるみに足を取られて一緒に倒れ込んだことだ。 本当は当て身を食らわせて説教を始めようと思っていたのだけれど。 一方、上を見上げたままで反応が遅れてしまったレックスは、 アズリアを抱きとめた格好そのままに、背中を地面に強打していた。 赤い髪がしっかり泥水ににじむ。 いい気味だ、とアズリアは思った。 「アズリア…?」 戸惑ったような声色で、薄く瞼から覗く青を睨めつける。 「今、お前には誰が見えている…?」 そう問掛け、その答えを聞かずアズリアは、噛みつくようにレックスへ口付けた。 アズリアに引きずられるように、レックスもまた深みを求めた。 頭と胴を大きな手で抱き込まれ、身動きが取れなくなる。 縋るようなその力に、アズリアは一層切なくなった。 どうしてこんな事をしているかなんて分からない。 ただ気付いたら欲していた。自分だけの彼を求めていた。 勝手な独占欲だ。 傲慢が過ぎる。 こんな事で気を引こうとする自分自身に腹が立つ。 けれど言わずにはいられなかった。 レックスの胸元にあった手を押して、ぐっと距離を空ける。 ぼんやりとこちらを見上げるレックスに、アズリアはぽろぽろと言葉を落とす。 お前は何を見ている? 「私は…ここに居るのに…」 アズリアの頬から伝った涙が、そのままレックスの頬へ流れる。 雨に紛れて気付かれてなければいいのに。 「…ごめん」 再び二本の腕に引き寄せられる。右の耳に鼓動が響きだした。 今度は静かにこめられた力と、すっかり冷えてしまった体温に、 何故だか涙がまた溢れる。 あぁ駄目だ。これは誤魔化せない。 「…何で謝る」 喉が震えた。 涙声も誤魔化せない。 「…………ごめん」 「……。」 暫く二人で雨に打たれた。止みかけの雨は痛みを与えず、二人の体を撫でていく。 やがて雨は落下を止める。 しばらくアズリアはレックスの心音を聞いていた。 顔を上げるにも上げられない。 視界の隅に閃光がちらつく。雨が止み、雲の合間から光が差し込んでいた。 帰ろうか、と起き上がるために弛緩していた体に力を込めようとした、そのとき。 彼女に回された腕がそれを拒む。 宥めるように大きな掌が黒髪を滑る。 そして頭の上に微かに言葉が落ちてきた。 「父さん………母さん…」 瞬間。 アズリアにレックスの奇行の理由の断片が湧き上がる。 胸のつかえが取れた思いと、踏み込んではいけない領域を垣間見た気まずさが交差した。 濡れきった黒髪を撫でる手は止まらない。 優しく甘いそれから逃れる術をアズリアは持たない。 はっきりとはわからない。 なんとなくしかわからない。 アズリアには何も出来ないことだった。 けれど。 「………レックス。」 心の奥底にある暗い澱みまで、抱きしめてあげられたら、どれだけ幸せだろう。 彼の胸に当てた頬をすり寄せる。 自分には似合わないだろう行為だけど、気にはならない。 いつか話してくれるだろう、とか。そんな期待じゃない。 彼がその話をする時は、それこそこちらの深い深い暗闇も見せなければならない。 弟と、家の、真っ黒な部分だとか。 今はそんな荒行はお互いに出来ない。 だから今は。 すべてを包み込もうとする自己満足で十分だった。 アズリアは顔を上げ、ふわりと微笑んだ。 相手がレックスだからこそ見せられる、少女のような笑み。 見下ろされるいつもの蒼に安堵しながら、そっと彼女はささやく。 「…帰ろう。」 空には青が覗き始めていた。