衣服を脱いで扉を開き、少し冷たい床に素足を乗せる。
保温するための蓋をそっと外すと、湯気がふわっと浮き上がり、あっという間に辺りに充満した。
冷えていた肌が、暖かな湿度に反応する。
掛け湯をして軽く汚れを落とし、そっと湯へ足をつけた。
じわりと沁みるようなこの瞬間がたまらない。
浴槽は檜。
風雷の里の屋敷で体験して以来檜湯に惚れ込んだ彼が、家を新築する際にこれだけは!と譲らなかったひとつが、この風呂だった。

当初は風呂ごときにそこまで情熱を注がなくても、と少々引き気味ではあったものの、
今になって、彼がこだわる気持ちが分かったように思う。

薫り高い湯の空気が、心身の凝りを解す。
目線を上げた所に据え付けた窓から月を見上げ、思い切り足を伸ばしながら身をゆだねる。
アズリアにとって、入浴の時間は一日の中でも楽しみな時間のひとつだった。


…のだが。


「奥様っ!お背中お流ししますよー♪」


檜風呂大好きな彼、つまりは彼女の夫の登場によって、貴重なリラックスタイムは終わりを告げる。






バブルバスタイム

「断る!」 とはいえ、黙って大事な時間を潰されるのは我慢ならない。 夫婦であっても一人の時間は必要なのだ。…風呂の時間以外に無いわけではないけれど。 しっかりとヘチマのタワシを握りしめて準備万端なレックスを睨んで、アズリアは叫んだ。 …が、タオル一枚持ち込んでいない彼の姿に赤面し、すぐに顔を俯かせる。 「ふ、風呂に早く入りたいなら、もう少し待っててくれ!  体洗ってすぐに上がるから!」 「アズリア、照れてる?…今更じゃないか。」 「う、うぅ煩いっ!!」 「ていうか別に早く入りたくて来たんじゃないってば。  今言ったでしょ?『お背中お流しします』って。」 ゆらゆらと上がる湯気を見上げながら、檜の湯船の淵に腰掛け、レックスは居座る様子を見せた。 「俺、ちょっと憧れだったんだー。背中洗ってあげるの。」 「…それは、妻が夫にするものじゃないか?」 「一般的にはね。でも君からは絶対言ってくれないでしょ?」 「当たり前だろう!」 「やっぱり…だから、俺が自ら、率先して、夫婦仲をより深めようとしているワケだよ。」 ぴちょん 天井へ上がった湯気が、水滴となってまた湯船へ落ちる。 世界に起こる気象の現象が、この浴室にも起こっていた。 漂うぼんやりとした沈黙を破ったのは、アズリアの方だった。 熱い湯の所為だけではない火照る顔を上げ、彼女なりの譲歩を見せつつ小さく呟いた。 「変なこと、しないなら。」 湯気は浴室全体に広がっている。 アズリアは目に泡が入らないようにぎゅっと力を込め、わしゃわしゃと響く音に耳を傾けていた。 泡がポタポタと肩に落ちる。 それよりも、頭を多い楽しそうに動く彼の指の感触の方が気になる。 「お客さーん、お痒いところはございますか?」 「…なんだそれ」 「美容院ごっこ。ね、力加減大丈夫?痛くない?」 「…あぁ。」 結局押し切られてしまったアズリアは今、椅子に腰掛けて髪を洗われている。 シャンプーの香りが漂い、鼻腔をくすぐった。 レックスの長く、男性にしては細めの指が動くに任せているけれど、決して不快ではなかった。 正直に言うと、気持ち良い。 自分でやるよりも心地よいその感触を、彼女はしばらく感じていた。 「流すよ、アズリア。」 レックスの合図でぎゅっと目を瞑ると、シャワーが勢いよくから湯が出てくる。 打ち付ける湯を黒い髪に沿わせると、白い泡が流れていった。 しっかりと落とし、 ―洗髪終了。 一息ついて、背後の気配を窺うと、ボディ用のタオルに石鹸をつけて楽しそうに泡立てる様子が見えた。 「…この間さ、ウィルが帰って来た時にイスアドラの温海に行っただろ?」 そっとアズリアの濡れた背にタオルを当てて、レックスがおもむろに話し出す。 凝った肩をほぐすように撫ぜる指に、髪を洗う時以上に暖かさを感じる反面…緊張した。 「あ…あぁ、行ったな。」 「あの時に俺、ウィルに背中流してもらったんだよ。」 「…そう、か」 嬉しそうに語りながら、レックスは腕を動かす。 白くて自分よりも小さい彼女の背を、丁寧に擦った。 「すごく気持ち良くて、嬉しくてさ。やっぱり裸のお付き合いって大事だよね……俺達としても!」 「生徒との親睦を深めるのは結構だが、後の言葉には同意しかねる。」 つん、と顔を逸らすアズリアを見て、小さく笑う。 「ホントに…今更。  ほら、リラックスリラックス。お風呂なんだから。」 宥めるような彼の声音と手付きに、ますます体が強張った。 「う、うぅう煩いっ!いつもは、いつもはもっと暗くて…!」 「アズリア。」 「……っ!」 蒸気のためだけではない火照りで肌を染めた彼女は、溜息混じりの呼び声と共に抱き寄せられた。 そして暫く、互いに黙ったままで息遣いだけを感じる。 背にぴたりとくっつく感触に、再び心地よい安心感が湧きだった。 目を閉じて、呼吸を合わせる。 肌を合わせることは、嫌いではない。 ぬくぬくとした温度がとても気持ちよくて。 幸せだと、感じる。 「……レックス。」 「…………アズリア…」 ―さわさわ。 今まで自分を包み込んでいた手が忙しなく動き出すまで、そう時間は掛からなかった。 滑るように脇腹を撫であげ、アズリアの皮膚をさ迷いだす。 「ど、どこ触ってるんだ!」 「わ、だ、だってアズリア気持ちよさそうだったから〜…」 「はぁ!?」 「えと、だから、あんまりにも可愛かったから、つい!」 「ついってお前……んんっ…!」 レックスの膝元で暴れ出すアズリアを宥めるように、吊り上がりかけた双眸をそっと大きな手の平で隠す。 重ねようとした言葉を遮らせるように唇を塞ぐと、ぱたぱたと動かしていた腕も大人しくなる。 結局、こうなってしまう。 安心・安寧・平穏…そんなままではいられないのだ。彼の前だと。 穏やかだった心臓の拍動は大きく荒れ、頭はのぼせてしまう。 くらくらする。どきどきする。 湯気でぼんやりしていても、いつもより鮮明に明るく見える彼の肌。 頬に掛かるいつもとは違う水気を帯びた赤毛の感触。 日常の中に出来た非日常の状態に、アズリアの意識は白濁した。 舌を滑りこませより深みを求めても、風呂と彼の熱に浮かされたアズリアは拒絶しない。 気を良くしたレックスの手が、脇腹からふるりと揺れる胸へと伸びる。 「…ふ…!だ、駄目、だ…レックス…!」 急な刺激に身を強張らせたが、止まらない手の動きで直に体を弛緩させた。 息を上がらせている彼女と対象に、余裕で楽しそうにレックスは微笑んだままだった。 「…もう、我慢できないよ。」 恥ずかしさで身を縮こませている体を抱きこむ。 同じように熱い彼の体温に驚いていると、そっと耳元に焦れたような声が下りてきた。 「今更、なんだからさ。諦めてよ。」 「だか、ら…こんな所、で…っ」 「そうじゃなくて、さ」 「え…?」 「可愛いすぎる君に煽られて、俺がこんな風になるってこと。」 リラックスタイムは彼の一言であっけなく終わりを告げた。 檜の香りに包まれ、夜は更けていく。