二度目だ。
ここで彼女に出会うのは。




譲れぬ距離

いくら生徒に呆れた目で見られても、いくら護人達に小言を言われても。 矢張り、一人きりで座り込む時間が欲しかった。 レックスは海賊船近くの森へそっと潜り込んだ。 空は、青い。 さわさわと揺れる枝葉から、穏やかな木漏れ日がレックスの頬を撫でる。 常夏のこの島の気温は、森の真ん中で座り込む彼を包んだ。 脱力したようにただ空を眺め、何かを考えるでもなく息をする。 いや、実際は考え事ばかりしているのだけれど。 ここ数日のいざこざで、レックスはすっかり参っていた。 偶然流れ着いた地図にも載らない未開の島。 最初は船を直して再び帝国本土に帰れるまで、仲良く出来たら良いと。 それだけだったのに。 この身に眠る、強大な力。 それを欲する人々。畏怖する人々。 話はどんどん肥大化して流れている。レックスの思う逆の方へ。 雨の感触が離れない。 轟く雷鳴が耳にこびりついている。 凍りついたような笑い声を発したのは、たおやかに微笑んでいた筈の「彼」だった。 思い返せば、違和感があったのだと思う。 彼の状況だとか、表情だとか、仕草だとか、…「彼そのものの雰囲気」だとか。 記憶を辿って具現化する。 言われてみれば、確かにあの二人は姉弟だろう。 やたらと芯のある瞳は本当にそっくりだ。 だからこそ、油断したのだろうか。 「…馬鹿だなぁ…」 目を伏せるのは、暗黙の了解なのに。 思い出してしまった。 小さく触れたその手の温度。 いつもの威勢が感じられない歩き方、そっと伸ばしたその腕はあんなにも華奢だったろうか? 剣を交えてはいたけれど、直接この手に温度を感じることなんてなかった。 すまない、と呟いて剣を受け取った彼女の手が、小さく震えていたのは、寒さのためだったのだろうか。 目線を下ろしてゆるゆると右手を上げる。 肉刺だらけの自分の手を見つめ、小さく握った。 きっと彼女の手は冷え切っていた筈なのに、火傷してしまうと思うくらい熱く感じた。 それは、蓋をしたまま奥へしまい込んでいる、彼女への気持ちの温度。 思い出してしまった。 とうに置いて来たと思い込んでいた感情を。 本当はいつだって溢れていた感情を。 やっぱり…アズリアが。 遠くに潮騒を聞いていたのに、今はそれが聞こえない。 レックスはそっと息を吐いた。 長く続くその音さえも、誰も居ないこの森では大きく響く。 きっと誰にも聞こえてはいないのだけれど。 「何だ。陰気な溜息をついて。」 潮騒の代わりに、凛とした声が降ってきた。 レックスが驚いて顔をあげると、同じようにゆらゆら揺れる木漏れ日を浴びたその人が、 10歩離れた先に立っていた。 「アズ、リア…。」 掠れた声で名を呼ぶと、寝ぼけてるのか?と笑いながら5歩の距離まで近づいてきた。 それ以上は動かない。 レックス自身も、彼女自身も、それがギリギリの距離だと確信していた。 「今日は、剣を抜く気は無いよ。」 「お前と意見が合うだなんて珍しい。私もだ。」 「…。」 「休憩中だ。」 障害物もなく、白く日差しが差し込む彼女の場所は、まるでスポットライトの当たる舞台の上だった。 そして二人は何も語らず、距離も縮めず、互いを眺める。 再び潮騒の音が響いてくる。 何をするでもなく見詰め合う二人は、傍から見れば滑稽なものだったかもしれない。 しかし二人にはそれしか無かった。 「アズリア隊長!」 静寂を破るように遠くから潮騒に紛れて、ギャレオの声が届く。 それをきっかけに、二人の時間は再び動き始めた。 気持ちを切り替えるようにアズリアは剣の柄を小さく鳴らした。 「早く戻れ、レックス。」 後方を振り返りながら、彼女は呼びかける。 ぼんやりとアズリアを眺めていたレックスは、急に現実に引き戻されたように 肩を震わせる。 「お前は気づいてないかもしれんが、ここは我々のキャンプの近くなんだ。  こんな所で寝てたら、本当に寝首をかかれるぞ。」 「あ、うん…気をつける。」 いつの間にか胸を覆っていた靄が、彼女を包む白い光のように薄くなっている。 きっと一時のものなのだろうけれど。 自分を取り巻く状況は、そんなに悠長なものではなくて、日を追う度に闇の色は濃くなっていくけれど。 本当の本当は、彼女に隣に居て欲しい。 剣を取るなら彼女と背中合わせでと、学生の頃から実は夢見ていた。 しかし、それでは守れないものが、今のレックスには多すぎた。 アズリアを選ぶことは出来なかった。 「どうした?早く行け。」 足を動かすことはなく、けれど視線は追いたてながらアズリアが促す。 それを遮るようにレックスは立ち上がった。 「アズリア…俺は、この島の皆を守りたいと思う。」 「…レックス?」 突然真剣味を帯びた目をする彼にアズリアはたじろぐ。 「でもやっぱり、誰も傷つかない方がいい。  言葉で一緒に歩める道を探そうと思う。  …その想いは、どうしても譲れない。」 甘い考えだ。言いながらもそう思う。 けれど、彼女にはそう伝えたかった。 しばらく訝しげにこちらを窺っていたアズリアは、再び聞こえてきた 自分を呼ぶ声に、今行く、と大きく返事をした。 振り返ると小さく笑う。 レックスは久々に見る、彼女の笑顔だった。 「…今更だ。そんなこと。」 「でも…。」 「何だ、逃がしてやろうというのに。」 そう言うと同じく、ガサガサと草を分け入る音が聞こえてきた。 きっと、彼女の部下が迎えに来たのだろう。 ここで無駄な戦をしようとは思わない。 それは、双方の一致した意見だ。 「…ありがとう。」 笑い返してそう言うと、アズリアは小さく頷いて踵を返す。 黒い髪がふわりと揺れた。 距離は再び大きく開いた。 スポットライトはそのままに、彼女はその影へと紛れ込んで行ってしまう。 音を立てないようにレックスも、元来た道を戻っていく。 手が熱い。 ほんの少し触れた、あの手が忘れられない。 アズリアへわざわざ言わなければ、自分の傾く気持ちを止められそうもなかった。 彼女を選びたいと、思ってしまった。 信念だとか立場だとか、そんなものは関係なく、彼女を選びたい。 今は、それが許されないから。 あれ以上距離を縮めることは出来ないから。 木の間からこぼれる白い光が、レックスの心をゆらゆらと照らしていた。