月に磨く

隣にある温もりになれてしまったのは、いつの頃からだったろうか。 想いを交じり合わせ、寝床を共にするようになって数ヶ月。 当初はこれ以上ないほど抵抗されたものの、何とか宥めて布団へ押し込み、説得に説得を重ね、 最後には泣き落としで「彼女の隣で眠る権利」を勝ち取った。 無理矢理もぎ取った。 情けなくたっていい。彼女も満更ではなさそうだし。 夢見の悪さに寂しさで弟君がベッドへ潜り込んでくるイレギュラーだってご愛嬌。 レックスにとって、この夜の時間は、何にも代えがたい大切な触れ合いの時間だった。 しかしそれも、彼女がいてこそのもの。 さわさわと隣を弄るが、いつもはそこにいる、細くしかし柔らかい感触が手に触れることはなかった。 「んー…あずりあ?」 寝惚けた声で呼びかけるものの、その返事もなかった。指先に感じる温度も低い。 むくりと起き上がり、首を回す。 部屋の中や、耳をすませて家の気配を探るが、彼女を見つけることはできなかった。 こんな夜中に何故?どこへ? 考えこんでいても埒が明かない。レックスは上着を羽織って家を出た。 雨期になり、日中ずっと地面を湿らせていた島は、薄い曇天の夜を迎えていた。 月さえ出ず、星も見えない。虫達の声もすっかり潜んでしまっていた。 こんな道を、果たして彼女は歩いたのだろうか? 家の前からの一本道を来たはずなのに、自分の歩く先が酷く心許無い。 ぶわりと足元を駆ける夜風が、不安を駆り立てる。 以前と比べて少なくなったとはいえ、はぐれ召喚獣は島中にいる。 よもや彼女が丸腰で夜中に外を出歩くとは思わないが、万が一ということがある。 …そう、万が一。 対処できないほど大勢の召喚獣達に囲まれてしまっていたら? 突然具合が悪くなって倒れていたら? 「アズリアー!?」 鈍い暗闇が不安を呼び、不安が更に不安を増殖させる。どろりとした空気がレックスの頬を撫ぜた。 その感触に身震いし、歩く足を早めた。 こんな夜に一人になどしておけない。 ぐるぐると思考が巡り、そんな言葉が胸を衝いた瞬間、 派手な水音が辺りの空気を奮わせた。 何事かと思う前に、レックスの足はバシャンと音がした方へ向かって駆け出す。 この方向には覚えがある。自分の感覚が間違っていなければ、何度も彼女と訪れた場所へ続く方向だ。 歩を進めるうち、向かいから強い風が吹いてきた。行き先は間違っていないらしい。 その風に伴って、空を覆っていたぼんやりした雲も移動を初め、徐々に視界が開けてきた。 島の住人達によって整えられた石垣を、つまづかないように飛び越え、さらりとした砂へ足をつける。 いつもよりはしっとりして、先までの雨の余韻が感じられた。 思った通りの所、外界に面する砂浜へ出たようだ。 その砂を踏みしめ、荒れた息を静めていると、すぐ近くで同じように息を潜める気配がした。 自分の身体に馴染みすぎている気配。 間違いない。彼女だった。 アズリア、と声を掛けようとしたレックスは、目の前に広がる景色に息を飲んだ。 晴れた薄雲から、大きく丸い月が顔を覗かせていた。 月から降り注ぐ青白くも銀色にも見える光が、海面を揺らし、そこにいる人も照らし出す。 目を奪われる。逸らせない。 ゆらゆらと揺れる紺碧の中に、彼女はいた。 寝間着の白いネグリジェの裾を、ふわふわと波に漂わせて座り込んでいる。 月の光に浮かび上がる白く瑞々しい肌。 黒く流れる髪の毛は、水に濡れてぺたりと頬に張り付いている。 その頬から伝った水滴が、白磁のような胸元へぽとりと落ちてゆく様は、レックスの劣情を酷く煽った。 まるで絵画を見ているような気分だった。 曇りのない月に照らされた目の前の風景は青白く光り、この世のものでないような色に染め上げられていた。 しかし、彼女の瞳は、淡く光る風景の中にいても決して曇らず、凛とした光を湛えている。 「…あ。」 そこで始めて、レックスはアズリアがこちらを凝視している事に気付いた。 一体どれほど眺めていたのか、彼女がいつ自分に気付いたのか、検討もつかない。 …が、 「何…してるんだ?」 アズリアが本当に不思議そうに訊いてくるので、思わず笑みを零してしまった。 「それはこっちのセリフだよ、アズリア。こんな夜中にどうしたんだ?」 「…散歩」 「散歩?」 「雨がようやく止んだから…外に出たくなったんだ」 傘をささずに歩くなんて久々だったからな、と楽しそうに言うアズリアの隣へ、ざぶざぶと音を立てて進む。 靴を脱げば良かった。 「で?どうして散歩に来てこんな状態に?」 彼女の状態を見れば自然と湧き上がる当たり前の問い。 レックスへ弱みを見せたがらない彼女の性質を、彼自身よく知っていたから、長期戦も見越して問い掛けた。 しかし、アズリア自身も問われる事は覚悟していたらしく、比較的すんなりと自分の失敗を吐露した。 「すべったんだよ」 「滑った?」 「最初は…気持ち良さそうだからと、海に入ってみて…しばらく立ってたら……か、」 「…か?」 「か…蟹が足元を通って、びっくりして、それで…っ!」 「滑ってこけちゃった?」 アズリアは羞恥に頬を赤く染めて頷いた。 先までの、眩い月光に当てられていた儚さは消え、どうしようもない自然な可愛らしさが湧きたっている。 己の失態を暴露してしまった事に頭を抱えるその姿に思わず、 「わ、笑うなっ!!」 「はは、ごめ…!でもアズリア可愛いすぎ…っあははは!」 笑われた事に憤慨する姿すら、レックスにとって魅力的なもので。 笑いの止まらない彼に痺れを切らしたアズリアは、勢いよく立ち上がる。 そして、器状にした手の平に掬った海水を、レックスの顔へ目掛けて投げ掛けた。 急な顔面への攻撃に、彼は驚いたように身を縮こませた。 「…塩辛いです。アズリアさん」 「いつまでもへらへら笑ってるからだ!」 「君が面白いことになってるから…っ」 ごめん、と続けようとする間も無く、第2波が叩き付けられる。 普段温厚であるレックスも、眉をじりりと潜ませた。 「勝手にこけて、勝手に恥ずかしがってるだけだろ」 「何だその言い草は!?…わぷっ」 アズリアはじとりとした目線をレックスに投げた。 彼の手はしとどに濡れ、アズリアの乾きかけた前髪は再び水滴を垂らし始める。 「何するんだ!」 ぱしゃり 「君が先に仕掛けたくせにっ…!」 ばしゃん 「大体お前こそ、何しに来たんだ!明日も学校だろう!寝不足で教師が務まるか!」 ばしゃばしゃ 「あ、アズリアがいないから!こんな夜中に女の子一人で!」 じゃばっ 「帝国の本土じゃあるまいし何をそんなに心配することが…」 「心配…するよっ!!」 激昂したレックスは暴れる彼女の腕を引き、思い切り抱き込む。 そして、 バシャーン! 暫く続いた水の掛け合いは、派手な水しぶきを上げることで終わりを告げた。 アズリアを抱き込んだまま、海の中へ倒れこんだレックスが起こした水しぶきだ。 彼女がダメージを受けないよう、手のひらで頭を覆ったのは無意識に。 けれど身動きが取れないように腰まで強くホールドしたのは意識的に。 二人が倒れこんだ波紋は押し寄せた波に掻き消された。 「…心配、したのか?」 もぞもぞと身じろいで、アズリアが訊く。荒げていた声とは対照的な、囁く、掠れた声だった。 胸の中の彼女へ目を落とすと、眉を下げ吊り気味の瞳を伏せた表情がそこにある。 「したよ。…君に万が一の事がありはしないかと。」 はぐれ召喚獣達に襲われていたら?突然体調が悪くなっていたら? レックスは勝手なその思いに苦笑した。 彼女を見つけ、こうして触れて自覚する。 分かってはいたのだ。 自分が本当に恐れていたのは、そんな事ではなく。 「万が一」彼女が自分を置いてこの島を出て行ってしまったら? そんな不安だった。 結局の所、夜中に一人で残された自分が寂しくて、一人でいることが怖かったのだ。 最愛の弟を捨て置くことが出来るはずがないと知っていて、帝国から遠く離れたこの島から一人で脱出する術を持たないと知っていても尚、 拭えぬ不安を持っていた。 わかっている。この気持ちは、自分を想ってくれている彼女への冒涜だ。 どうしたらいい?どうしたらこんな焦燥した感情を捨てられるのか? 「…レックス」 どろりと渦巻く思考を、必死に振り払おうとするレックスの背に、アズリアの腕が回った。 優しい力で抱き締められる。 それに応えるように、レックスも腕に一層力を込めた。 「ひとりにして、ごめん」 そうして続いた彼女の言葉に、レックスは息を飲む。 「…『心配を掛けて』…じゃなくて?」 「私が居なかったから心配したのだろう?お前に何も告げずに家を出た私が軽率だった」 すまない、と。 「私がお前の立場だったらと考えると、少し面白くなかったしな。」 「そう、なのか?アズリアなら、俺いなくても「大方夜釣りにでも出てるんだろう、あの釣りバカ」とか思って構わず寝ちゃいそうで…」 「な…っ!ばか!」 「うわ」 自分が思っている方向より変化した会話の風向きに、冗談半分で対応すると、回された腕を極限まで締め上げられた。 鍛えられた腕に締められるのは、可愛い恋人とはいえ、きつい。 抱えた細い背中をさすってギブアップを告げる。渋々腕を緩めたアズリアの顔を覗くと、唇を尖らせてこちらを睨めつけていた。 「私だって…夜くらいはお前と2人でいたい」 「アズリア…」 「日中はほとんど捕まらないんだ。一緒にいられるこの時間は、無駄にしたく、ない。  …と思っているんだが、自分で無駄にしてしまっているんだ。様無いな…」 「…だから、『ひとりにして』?」 「ああ……重たい、だろう?こんな気持ち」 「まさか!すごく、すごく、嬉しいよ。」 嬉しくてたまらない。最初はあんなに抵抗してたのに。…照れ隠しが大半だったのは分かっていたが。 自分の不安すべてを引っくり返してしまうことにはならなかったけれど、レックス自身が思っている以上に、彼女も自分を求めてくれた。 それだけで、嬉しくて泣いてしまいそうだ。 これまで、アズリアが自分の言葉でレックスへの愛情を語ることは、恥ずかしがって無かったことだったから。 そして同時に、今ある自分の渦巻く感情も、彼女に伝えるべきなのだと感じた。 決して綺麗なものではない。出していく内に、もっと汚い感情が出てきてしまうかもしれない。 けれど、今の気持ちすべてを開ききってしまえば、その先にもしかしたら、見えていなかった二人の関係が見えてくるかもしれないのだ。 ああ、これがきっと、2人で生きるということ。 ―だが、とりあえず今は。 アズリアの腰を抱えなおし、額を合わせて目を合わせた。途端に染め上がる紅い頬。可愛らしい。 「ねぇ…ホントに悪いと思ってる?」 「お、思ってる!」 「ふむ。じゃあ、さ」 レックスは、彼女の震える目蓋に口付け笑った。 「言葉でもいいけど、態度でも教えてよ、君の気持ち。」 離す気が更々無いことを強調するかのように、抱えた腕に力を込める。 ずぶ濡れの衣服の気持ち悪さも気にならない程に、密着した体温と熱情は上昇していった。 レクアズ祭の共同お題に投稿させて頂きました。